灯火親しむべし ジョージ・オーウェル著「パリ・ロンドン放浪記」を読む

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今度の台風で、避難所が路上生活者の受け入れを拒否した事実がニュース報道された。路上生活者への対応は自治体によって異なるようだ。
報道されたのは台東区の例だったが
お役所仕事の典型をみる思いがした。
ナチスの残虐行為も官僚制の結果だった。
命令を遂行したまでです。
と、アイヒマン裁判で被告は主張している。

本書はジョージ・オーウェルのデビュー作で、ルポルタージュ文学の傑作とされている。
1927年から3年間にわたる、パリ貧民街とロンドンの浮浪者の実態を描いている。
作者自らが最下層の生活を体験し、貧しさは罪なのか、浮浪者とは何者か、と問い、社会通念の矛盾を衝いている。
本書で描かれる浮浪者の収容所の劣悪な環境は、社会の劣等者に快適な生活を提供しては甘えを蔓延らせることになる、という認識があると、オーウェルは指摘する。
因みに当時のイギリスでは物乞いは犯罪とみなされた。

現在の日本の状況が、両大戦間のパリ・ロンドンにオーバーラップする。
全体主義・管理主義による官僚制の恐怖は、ジョージ・オーウェルが「1984」で活写した。
私は、マイケル・ラドフォード監督の同名映画(1984)を観て、とてつもなく暗い近未来社会の描写に暗然たる思いがしたものだ。
官僚主義というとカフカ原作、オーソン・ウェルズ監督の映画「審判」も思い起こされる。
こちらは、華麗な銀幕のモノクロームに圧倒され、恐怖すら美しく感じたものだが。
1982年の映画「ブレード・ランナー」も想起された。
人工知能が官僚機構に親和することを予感させる。

先の台東区の例は、マニュアルがないとにっちもさっちもいかない役人社会の弊害を明らかにした。
人間的に生きる、とはどういうことか、特に最底辺の社会では切実に問われている。
貧困、介護、いじめ、ブラック企業…
格差社会での富の偏在が、いかに人間性を踏みにじる結果を招くか。
当時の作家・ジャーナリストの告発は、今日も未だ解決していない。

※ パリ・ロンドン放浪記  ジョージ・オーウェル作
              小野寺健訳  岩波文庫(’89)






「審判」 原作:カフカ 監督:オーソン・ウェルズ フランス1963年公開


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読書の秋はまた、芸術の秋、美術の秋でもある。
本書を読んでマネの革新性を意識する美術ファンは、力の入った企画展目白押しの上野に行く愉しみも倍増しようというもの。
レアリズム、印象主義、モダニズム、脱構築…
マネ以後の流れの源がまさにマネの絵画に起因するという見方はとても刺激的だ。
マネを好む人は、まず筆触とマチエールの美しさに魅せられる。
マネは、歴史や文学から解放された絵画の自律性を意図したのだろうか。

※ エドゥアール・マネ 西洋絵画史の革命  三浦篤 著
                      KADOKAWA(’18.10)



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作品の道具立てに、ソフトドリンクが脇役として意外に効果的な役割を果たしているものだ。
秋の夜長、とっておきの紅茶や、眠気覚ましの珈琲とともに、アンソロジーを読むのは愉しい。
夏目漱石に「明けたかと思ふ夜長の月あかり」という句がある。
漱石も徹夜で書見をしていたのだろうか…

※ ロマンチック・ドリンカー 飲み物語精華集 
               長山靖生・編  彩流社(’19.8)

短篇を読む愉しみ 「20世紀イギリス短篇選」

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短篇と長篇の違いは、密度の違いだ。
長篇は歴史、時代、風俗、人間を描き尽くそうと目論まれ、滔々と記述されてゆく。
一方、短篇は人生のある断面を切り取り、フォーカスすることによって、日常見逃しがちな風景や生活感情などを、鮮やかに浮き彫りしてみせる。
詩ほど短くないが、詩に近い衝撃を受けることもあれば、とりたてて言語化されることもなかったささやかな感情や感覚が時代や国境を越えて共感を呼び起こす。

漢語に「灯火親しむべし」という言葉がある。
秋の夜長、何ものにも煩わされず、短編のアンソロジーなどのページを繰る愉しさは、日頃のストレスへの復讐にも似た快感がある。
ダイニングの一角のデスクを借りて、20世紀イギリス短篇選(上)(下)を読み終えた。

上巻は、主に第一次大戦前から第二次大戦中に発表された作品が収められ、下巻は1950年代から70年代に発表された作品を収録している。
時代相がくっきりと浮かび上がる作品もあれば、イギリス人好みのぞっとさせるような怖いショート・ストーリーもある。
書く対象となる人々が下層であるか上流であるかでまた作品の味わいも異なる。
本質的に平等志向が強いと言われる日本人からみると、階級制への諦念を強く感じる。
全体にイギリスの階級社会を強く意識させずにはおかないが
戦後になると女性作家が増え、「階級制や人種差別に寛容になった」(小野寺健)

20世紀のイギリスは、帝国の絶頂期を終えて、長い斜陽の時代を迎えた。
人々がその将来に漠然とした不安を感じていたことを編訳者・小野寺健は指摘する。
植民地インドに赴任したイギリス人がやがて狂気に陥る「船路の果て」など、当時の植民地の空気感を伝え、フランスのマルグリッド・デュラスを想起させる。
ジェームズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフ、D.H.ロレンスの短編もあれば、下巻の作家は私にとってほとんどが未知であった。

作者が死してなお、作品の生命が消えないでいるという当たり前の事が、しみじみうれしい秋の夜である。


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岡本かの子 生誕130周年記念の集い

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NPO法人高津区文化協会が主催する、上記タイトルの集いに参加しました。
川崎市の新住民にとって、二子玉川といえばまず岡本かの子でした。
意外なことに、地元でもすでに岡本かの子の名を知らない人も多く
今回の催しですら、彼女の著作を読んだことのない参加者もいてびっくりさせられました。
息子の岡本太郎は有名なのに。

少しでも多くの人が岡本かの子の著作に親しみ、その文学の香の豊潤さを再認識する機会となれば、という意図で企画された記念の集いでした。
プログラムは、日本近代文学の研究者で文芸評論家の伊中悦子氏による講話、地元在住の彫刻家・梶原瑞康氏創作の「鬼子母神像」の紹介、関根淳子の一人芝居「鬼子母の愛」(三味線:新保有生)、神田京子の講談「岡本太郎」という、盛りだくさんの充実した内容でした。

岡本かの子を知らない人でも楽しめ、彼女の生き方に興味を覚えて、作品への呼び水となるよい企画だったと思います。
岡本かの子の文学に精通していても、一人芝居を観て改めて、母の愛の深さ、複雑さに思いを馳せた人もあったのではないでしょうか。
関根淳子さんはもう10年もこの演目を演じ続けているということで、非常にこなれた洗練された芝居になっていました。
舞踊の美しさに朗読と台詞の声音、抑揚が加わり、構成には間然とするところがありませんでした。
「子殺し」が頻々とニュースになる昨今、普遍的であると同時に、非常に今日的テーマだと思います。

講談の神田京子は、とにかくしゃべりのうまさが圧倒的で、すでに周知の事柄を語るにつけてもその話芸には観衆を惹き付けてやまない魅力があり活力に満ちていました。
伊中悦子氏の講話からは、苦しみ抜いた人として仏教への道が開かれた岡本かの子についてまだまだ知りたいという思いを深くさせられました。
かの子の作品からは芥川龍之介をモデルにした「鶴は病みき」と、「老妓抄」がピックアップされ解説が付されました。

岡本太郎は生前、母・岡本かの子について、文壇や評判を気にし過ぎていた、と語っていたとのこと。
腺病質であるがゆえに生への希求が人並外れていたかの子は、肉食系女子の印象が強いですが、この際読み直す側面もあるのでは…、とふと考えさせられました。
(川端康成はかの子を評価していたが、谷崎潤一郎はそうではなかった)
それにしても何と瑞々しくも肉感的な表現が散りばめられていることでしょう。
加えて、手放しのナルシズムは、気弱な読者の無意識を代弁するものでしょうか…(^^;)

わが家の遠つ代にひとり美しき娘ありしといふ雨夜夜桜

うつらうつらわが夢むらく遠方の水晶山に散るさくら花

ミスター・ゴッド・ハンド その死を悼む

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その医者でなければできない手術というのがありますね。
ついこの間、柔道整復師の先生とそんな話をしたばかりだ。

レントゲン写真を見て、ため息をつく先生。
「あの先生はどこか違うんですよ」と、同業者の声…etc.
30年耐えている人工関節の膝の話に
上手な先生なのですねえ、とびっくりする人もいる。

ミスター・ゴッド・ハンドは、関節注射でも、繊細な手つきで、決して痛くなかったのは何故だろう…

「私、失敗しないので」の大門未知子も、駆け出しの頃は、患者の命を救えないことも少なからずあったはずだ。
ゴッド・ハンドは、世界中で手術をすることになる。
手技と判断は機械ではできないから。

数か月診察を中止していた主治医が亡くなったことを今日知らされた。
30年以上診て頂いた主治医の死がまだ信じられない。
アメリカでもアラブでもない、天国でまた手術をすることになるのではなかろうか…

外科医の寿命の短さと、人の命の儚さに、改めて感慨をもよおしながら
俺に任せとけ、とばかり、脂の乗り切った頃の先生の、自信に溢れた姿が目の前にちらつくのだった。

笑いの健康法や介護についての一般向け著作がある。
執筆は嫌いな仕事ではないとおっしゃっていた。
でも最後に「本当はゴルフについて書きたいな~」
彼岸では、手術よりゴルフを楽しんでおられるかもしれない。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


※ 脳内リセット!笑って泣いて健康術  吉野槇一 著  平凡社新書(’07.7)

高校の同期会に出席して

地下鉄駅より地上に出ると
「ああ、○○さん。良かった~」という声が聞こえた。
ポツポツ降り始めた雨の新宿。
「地図がわかり難いのよねえ」と言いながら三々五々、向かう先はどうやら同じ会場だ。

M子ちゃんの傘に入れてもらって歩きはじめると間もなく、見上げたビルの看板に目的の店名を見つけた。
いつまでも若い気でいるうちに、いつしか還暦をはるかに越えて、次は古希の集いを、ということになっている。
今の60代は見た目も体力もとても若い。

けれどさすがに高校時代の面影が強烈なだけに、半世紀の歴史を刻んだ相貌はにわかには見分けられない。
社交辞令が舌をすべってゆく間、じっとその目を見つめるうちに、みるみる発展途上の幼い高校生の顔が浮かび上がり
突如として、あ~!! という歓声が上がる。
まだ海のものとも山のものともつかないつるりとした童顔は、やがて喜怒哀楽の皺をたたみ、彫りが深くなったり、ふくよかになったり…
つくづくと、自分の顔は見えないからな~、と思う。

今回の参加者は110名。
幹事が用意してくれたプリントに、物故者の名がふたつ記されてあった。
もっと語り合っておけばよかった、(学生時代は)自分のことで精いっぱいで…
と誰かが言う。
同感しつつ、でも高校生はそれでよいのだ、とも思う。
戦友が特別なものであるのと同様に、やわらかな脳みそを持った者どうし、机を並べ、互いに影響し合ったことは確かだ。

元気そうね、変わらないね…
その一言が交わせただけでよかった、と思える仲間もあった。

二次会でビールを飲みながら、次は2年の時のクラス会をしようということになった。
人恋しい年頃なのである。

幹事さんたち、本当にお疲れさまでした。ありがとう!


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秋の夜長と図書館ワークショップ

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秋の夜空に月を眺めるなどという優雅な習慣は以前にはなかったことだ。
鬱蒼とした樹木と軒が、空を遮っていたからだ。
こちらへ引っ越してきてからは、高台にある建物の3階から、朝に夕に空の変化を楽しむことができるようになった。

昨夜は西の地平、上空が夕焼けの帯となり、思わず見とれてしまった。
中天に半月に近い三日月がかかり、明るい星がひとつ、月光にも負けじと瞬いていた。
飛行機が赤い光を点灯して夜空を横切ってゆく。

翌朝窓を開けると案の定、富士山のくっきりとした輪郭が見えた。
前景の山系は丹沢と大山だそうだ。
目に良いのは、星空より地平の山並みを見ることだという。
焦点を合わせるにも、星はあまりにも遠いから。

天体観測の効用のひとつは、自分がちっぽけな塵に過ぎないことに気づくことではないだろうか。
限りなく小さな存在であることは逆説のようだが、深い癒しをもたらしてくれる。

多摩川で花火大会の開かれる今宵、二子玉川へ行く人で電車も混んでいた。
私は二回目の図書館ワークショップの会場から帰るところだった。
ワークショップは、図書館が区役所とともに移転するにつき、区民の声を拾い収斂させることによって、新しい図書館像を創造してゆこうというものだ。
税金を投入して行われる駅前開発事業が、真に区民の声を反映した空間をつくりあげることができればと思う。

明日こそ雑用をすべて片づけて読書に専念しよう。

※ 冒頭の写真は、10月5日の夕景


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↑↓ 図書館ワークショップ                 ’19.10.6


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沢村貞子は名優だった。役柄との間にすき間がなくて、母はよく「うまいわね~」とため息を漏らしていた。
名エッセイストでもあり、本書は第25回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。
芸能一家に育った著者は、浅草に生きるおかみさんたちの働きぶり、辛抱の仕方、喜怒哀楽を、生活の狭間に観察し、さりげない筆致で、人情と感情の襞を描く。

私の浅草  沢村貞子 著  平凡社ライブラリー(’16.6)

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幸田露伴の短編、表題作以外に3篇がおさめられる。
「幻談」は、釣り師の、いわく言い難い心情を、そこはかとない微妙な筆が活写した作品。
その上、ミステリー仕立てのできごとが、随筆とフィクションを見分けがたいものにしていて、読書自体が夢幻の体験のようだ。
「骨董」には露伴の博識が遺憾なく発揮されていて、堪能する。

幻談・観画談  幸田露伴 著  岩波文庫(’90.11)

神楽坂にて

土曜日の昼下がり。
同窓同期の五人が、神楽坂の入口で落ち合った。
突然の電話に驚き、仲間に加わってからすでに数回、飲み会を重ねた。

この近くの大学でともに学んでから半世紀近くが経とうとしている。
45年と一口に言っても、人の一生の過半を占める。
それほど長い空白期を挟んでも、昔の面影は変わることがない。
髪が後退しようが、病気の話が出ようが、会えば瞬く間に青春と呼ばれる時代にもどってゆく。

不思議なことに、性格の変わらないのは驚くほどだ。
それぞれに経験を積んで、苦労を重ね、仕事の醍醐味も家庭の安寧も知っている。
人知れず心配事を抱えているかもしれないし、時に過去の手柄話も披露したいだろう。
不問に付された事柄は、阿吽の呼吸で察し合い、あえて言葉にされることもないが、45年という歳月は、それぞれの心身に膨大な皺を刻んでいるはずなのだ。

誤解があり、皮肉を言われることがあっても、その正直さが懐かしい。
運の分かれ道で幸運を手にする経験も、仕事の苦労も、私からみれば、眩しいように感じられる。
まだ土俵を下りず、現役を張る仲間には、合わせる顔もない。
と言いながら、実際こうして会っているのだから、それは少しあざといへりくだり、というものだろう。
肩の力の抜けた年代に至ったということだ。
何という遠い道だったことか…

同じクラスだった仲間が急死したことを聞いて、俄かに無常観にとりつかれたわけでもないが
焦燥感はじわじわと背骨を這い上ってくる。
時は過ぎ去り、逝く仲間も出てきた。

ひとしきり話した後、二次会へ行く仲間と別れた。
日はとっぷり暮れて、出勤する着物姿のお姐さん方とすれ違う。
こじゃれた店が増え、すっかり様変わりした神楽坂をひとり後にした。


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日本酒の品ぞろえがよいことと、魚の生きがいいので、集うのはここ、と決まったようだ。
最初に、鬼おろしにたっぷり釜揚げシラスを盛り上げたのが、出てくる。
これだけで日本酒がすすんでしまいそう。
カマスの刺身というのをはじめて頂きました。 どまん中 神楽坂店にて ’19.9.28