「血の収穫」を読んで

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ミステリーのなかでも、ハードボイルドは私の特別な一角を占めている。
ウエットな日本の風土がハードボイルドに適さないというのは偏見かもしれないが、日本の作家の作品へと向かうことはまずない。

ダシール・ハメットの長編第一作「血の収穫」新訳版を読んだ。
彼の影響を受けたレイモンド・チャンドラーの方が年上であることを今頃知ったのだが、映画の黒澤明だけでなく、日本の小説もその影響下に多数書かれてきた。
一般にハードボイルドの原型はハメットを嚆矢とするようだ。

実際ハメットは、「われわれは眠らない」の標語で知られる米大手のピンカートン探偵社で働いていた経緯から、作品のモデルや事件などその経験がもとになっている。
雇われ探偵のコンティネンタル・オプはその時の上司がモデルだという。
オプは小太りの中年男ということになっていて、その風采はおよそハードボイルドのヒーローに相応しくないように思われるのだが、本作は彼の一人称語りなので、かっこいい必要はないのかもしれない。
却って作品のリアリティを保証していることになるだろう。
何よりも自分の経験から生み出された作品は、そのバイオレンスにまがい物でない迫真性を与えている。

情け容赦のない〈血の掟〉が全編を支配していて、町の実力者も警察も、その例外ではない。
正義とか悪の境界線に再定義が必要なのではないか・・・
そんな疑念が生じるのは、殺人や暴力に対する抑止力がどこにも存在しない世界が描かれているからだ。
規律と名づけられるのは唯一、探偵仕事の作法や規範に関わる。
ハードボイルドはまさに、その覚めたカメラアイのような客観性から必然的な表現となった。
それは文体をも決定する。
短いセンテンス、感情を交えない客観描写、抽象性を排した具体的表現、・・・

フィクションでは、現実の世界で不道徳とされる行為も、表現の可能性に原則制限はもうけられない。
暴力表現で物議をかもした映画監督サム・ペキンパーも黒澤明を通じて、やはりハメットの系譜に属している。
暴力の抑止とは・・・
虚構のバイオレンスが、偽善ではない、真実の平和について考えさせるのだ。

因みに私立探偵定番のトレンチコートは塹壕(トレンチ)に由来する。
ハードボイルドは戦争の影をひきずっている、と言われる。
ハードボイルドは無意識のうちに、戦場の不条理を克服しようとしているのかもしれない。



※ 血の収穫  ダシール・ハメット 著  田口俊樹 訳
                     創元推理文庫(’19.5)
                    

ホームの日常

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部屋の掃除はホームのスタッフに週1回お願いしている。
(当ホームは、介護事業所が同居している)
これが介護付き有料老人ホームになると、ごみ処理と掃除は毎日のように行われるはずだ。
そこは住宅型と介護付きの違う点だ。

最大限プライバシーを守り、外出も自由というのが住宅型。
キッチンもあればバスルームもあるので、自室で調理する人が多い。
将来介護が必要になっても、今はまだ社会活動に参加したいという向きは、住宅型、自立型あるいは混合型などのホームを選択することになるだろう。

しかし健康に自信がある人でも年は争えない。
私が契約して転居したのは令和1年。
こじんまりしたホームなのにその間、すでに4名の方が亡くなられた。
それも元気な姿を日々、ダイニングで見かけ、あいさつを交わし、イベントなどにも積極的に参加していた人が、である。
命の儚さというものを痛感したのは、このホームに来てからである。
一方90歳代で、社長職や会長職を務め、週に何度か通勤するという生活を送っている人もいる。
人それぞれの運命というものがあるのだなあ。
そのことを素直に受け入れるようになった私がいる。

私はと言えば、まるで旅行でもするような気持で、多摩川を渡った。
実際、電車の窓から多摩川を眺めながら、何でこんなに河原が広くなったのだろう…?
と、鴨川と一瞬混同したことがあったくらいだ。
(よほどぼんやりしていたのだろう)

一所不住、と私は思っていた。
ところが、家が一番!と誰もが言う。
どちらも真理である。

ホームには多様な人との新たな出会いがある。
それを活かすのは、まだ元気なうちであることも確かだ。




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8月9日  昼下がり、野山真希さんのピアノの音色に癒されました。


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目に涼しげな、流水をイメージさせるドレスを選ばれたとか。
成功してます。

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お馴染みの曲を新鮮な気持ちで楽しむことができました。
ベートーヴェンの「エリーゼのために」、ドビュッシーの「月の光」、シューマンの「子供の情景」、ショパンの「ワルツ」「ノクターン」、日本の歌から「浜辺の歌」
ダイニングは音響が良いので、これからもアットホームなコンサートの企画をお願いします。
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’22.8.7

明日は立秋 孤独なリハビリ

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こんな地味で苦痛なだけの運動なんて、先生の掛け声なしにはできない。
PTにそう言いながら入院中は営々とこなしてきたリハビリのプログラム。
退院後自主的に行うようになったら、継続するための鍵はただひとつ。
わずかでも成果を実感できるかどうかにかかっている。

筋力さえつけば、今までのように楽に歩けるはず。
主治医も執刀医もPTもOTも、決しておざなりな励ましの言葉をかけようとはしなかった。
希望を繋げようと、あえて楽観的に考えていたのは、患者である私だけだったのかもしれない。

昨日、医療保険を使うリハビリを受けるために、関節の可動域、筋力等を調べた。
意外に筋力はある上、苛酷な手術にもかかわらず、可動域はまず確保されていた。
(執刀医なら言うだろう。そういう手術をちゃんとしたのだから、と)
執刀医の前で、すたすた歩いて見せることは、私の願いだ。
歩いて入院した娘が車椅子で帰ってきたら、老母がどんなに悲しむだろう・・・
執刀医にプレッシャーをかけるのは得策ではない、と肝に銘じながら、つい言ってしまった。
執刀医は並外れてプレッシャーに強い人だということを後になって聞いた。

周囲は、もうあまりのびしろはないだろう、と考えているようなのだ。
ホームの廊下をほとんど毎日、ノルマを決めて歩く。
手術が手術だったので、これ以上良くなることはあるまい。
そう考えることは私にはできなかった。

間違った手術はしていないという執刀医の言葉を信じて
これから1ミリでも進歩を実感できれば、地味なリハビリを続けていけるだろう。

※ 冒頭の写真は、スタッフが部屋まで届けてくれた「久寿餅」  ’22.8.5
「発酵倶楽部」というイベントで、和菓子唯一の発酵食品としてとりあげられた。
「久寿餅(くすもち)」は葛餅とはべつもので
 小麦粉をグルテンと澱粉に分け、澱粉のみを湧き水で約400日間寝かせて発酵させてつくる。


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料理長が八ヶ岳山麓で調達してきた野菜を揚げ浸しにした具で、素麵を頂きました。’22.8.4

読書日記 グルメツアー


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夕食後もダイニングに居残って、きだみのる著「南氷洋」を読み終えた。

南氷洋捕鯨船団の雄姿に思いを馳せながら、やがてカメラアイとなった視線は個々の船へとズームする。

一旦、巨大な鯨に対峙すれば、一時の油断も許されない緻密な連携プレーによって、捕獲された海の王者は、食糧としての肉塊とオイルに分解されてゆく。

人間の力技と知力は常に限界ぎりぎりまで発揮されねばならない。

AFP通信の記者をしていたこともある、きだみのるのレポートは、坦々とした筆致で、さらに船員個々の苛酷な労働と禁欲的な生活に迫ってゆく。


いつか、小林多喜二の「蟹工船」を思い出していた。

実は小林多喜二の生年は、きだみのるより若い。

小林多喜二の意識的な思想性と比べると、きだみのるは共産党嫌いの自由人。

「蟹工船」はプロレタリア文学という枠の中にはおさまりきれない文学性をもっていたが、

私淑した志賀直哉は「プロレタリア運動意識が作品として不純になる」と評した。

日本のプロレタリア文学より西鶴を読んだほうがいい、という志賀直哉の指摘は、きだみのるの、資本論よりファーブル昆虫記を読め、という意見と同様のものだ。

残念ながら早熟な小林多喜二には作家としてさらに飛躍し、大成する時間が残されていなかった。


「南氷洋」はメルヴィルの「白鯨」に触発されて書かれたものかもしれない。

安部知二訳が「南氷洋」に先立って出版されているが、語学の堪能なきだみのるは原文で読んでいたとも考えられる。

戦後、海外渡航が禁じられた状況下で、自由と海を愛したきだみのるは、友人を介して、日本水産の誘いにのった。

七つの海へと読者を誘うことを痛切に望みながら、その欲望を絶たれていた作家にとってまさに渡りに船だった。


きだみのるは、一所に止まることを極度に恐れていた。

陸の世界と没交渉になる船上の期間には辛いものもあったろう。

が、有無を言わせぬ現実がそれを上回っていた。



※ 冒頭の写真は

コロナと猛暑で引きこもりを余儀なくされたホームで許される、ささやかなイベントとしての「グルメツアー」の一環。

昨日料理長が八ヶ岳で仕入れてきたという野菜がカウンターに並べられた。

明日のランチは「八ヶ岳の高原夏野菜そうめん」楽しみにしています。


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7月27日のグルメツアーは、サマーナイトBBQ(バーベキュー)




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風の強い日で、ウッドデッキに水を撒いて、防火に努めつつ
スタッフはまだ暑い外気のなかで奮闘しました。
入居者は、涼しいダイニングで、ソーセージ、牛肉、帆立にイカ、ピーマンやトウモロコシ、焼きそばにパエリア・・・etc.
次々に運ばれる食材に舌鼓を打ちました。


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漂流怪人 きだみのる

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嵐山光三郎著「漂流怪人 きだみのる」を読む。
この読書からは、「モロッコ」や「気違い部落周遊紀行」を読んだ時の昂揚感とは別の感想を抱かされる。
それは編集者として嵐山光三郎の客観的な視線が捉えた人間きだみのるであり、その人間関係の葛藤であった。

きだみのるは、自由奔放にその精神を発露させ、旅へと赴いた。
何よりも自由を優先したきだみのるは、その代償の大きさを誰よりもよく知らずにおれない人であり、覚悟の上でそれを甘んじて受け入れた人だ。

一方、三好京三の「子育てごっこ」はよく知られており、私も題名くらいは知っている。
しかし、三好京三の養女が、きだみのるの実子「ミミ」であることに愕然としたのは、あまりにも私のもの知らずと言うべきか。
きだみのるは、その「男装の小公女」と東南アジアを旅した。
養女となった後、ミミが、数々のスキャンダルにまみれ、風聞の的になったことは、本書に詳しいが、私はそれも知らなかった。

自由の重さを知るが故に、胆力に欠ける私たちは自由を徹底させることを避け、互いを気遣う村社会で、どんぐりの背比べをしているのではないだろうか。
それはそれで群れることによってサバイバルする動物としての知恵だろう。
きだみのるにしても、共産主義者は資本論より先にまずファーブル昆虫記を読め、と言っている。
現実探求のリアルな目を養え、と言うのだ。
本能は生命の根本であり、大いなる宇宙摂理に通じているはずだから。

個人の自由は、社会の福祉や平和を時として侵犯する。
それでも「自由」という理念が無疵でいられるのは、あるいは自由のなかに、さらに高度なヒューマニズムが潜んでいるからではないだろうか。
だから「大人」は自由という概念を平気でもてあそぶことができるのだと思う。

いずれにせよ、きだみのるの旅行記は凡百の体験記とは異なっている。
かざりけのない平明な文章は明晰で、感傷とは無縁だ。
旅へと誘う風のように、しぜんな憧憬を呼び起こす力がある。

三島由紀夫の死後、フィクションか暴露本か定かならぬ書物が出版されている。
三好京三の著作にも、その傾向があるのかどうか、幸せなことに私は本書で知る以上のことを知らない。

過去のページに以下を掲載しています。
幻の「モロッコ紀行」とは
https://freeport.at.webry.info/201102/article_2.html

※ 漂流怪人・きだみのる  嵐山光三郎 著  小学館(’16.2))

フリッカー、あるいは映画の魔

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本書は、ミステリーというより近未来歴史小説とでも呼ぶべきではないだろうか。
映画の薀蓄が豊富で、映画好きは瞬く間に読み終えてしまいそうだ。
特に映画の技術面に関する記述が多く、その方面に関心のある読者にとっては、マニアックな読書体験になるだろう。

読みはじめから予感させるのは、「人類の最期」という不安なテーマである。
地球がもはや人類の生存には適さない、あるいは資源の枯渇、…という大問題に直面している今日。
現実に起きている、基本的な人権を易々と踏みにじって豪も恥じない権力者による野蛮な行為は、フィクションとして構想された陰謀史観的意図に奇妙なリアルさを与えている。
「邪悪」の一言で説明されるキリスト教世界における悪、それに対抗する善という二元論。さらにその二元論を否定する勢力との水面下での抗争。

映画というメディアの持つ、扇動的、陶酔的、破壊的、催眠的・・・な力は、時に私たちを確かに非日常の危険過ぎるほど魅惑的な地点まで連れてゆく。
そのことに注目した為政者が妙に映画好きだったりするのは、人心をコントロールするための技術として意識的に映画を使おうと考えているからかもしれない。
荒唐無稽とばかり退けられないのは、無責任で非人道的な為政者が現実に存在しているからだ。
茶の間に入り込んだテレビがそうであるように、視聴者は知らないうちに洗脳されてしまう。
日本の政治家もメディアの支配には積極的だ。

ごく単純なサブリミナルメソッドの有効性については、未だ明らかにはなっていないようだが、疑わしきは禁止するという原則に則り、NHKではサブリミナル的表現方法を禁止する旨を明文化している。
ネットの普及につれ、情報リテラシーの重要性が問われるようになって久しい。
視覚的な影響力はテキストのそれに比べると、影響が大きく、それも短時間で達成される。
感化は、無意識的に無批判に起こりがちだ。

ストーリーの結末は尻すぼみで期待外れだ。
ただ映画をめぐる饒舌体には脱帽させられる。

自民党と統一教会の無節操な癒着をみる時、政治と宗教による洗脳が、互いを必要とする双生児のように思われる。
現代でも。


※ フリッカー、あるいは映画の魔  セオドア・ローザック著  
                     文春文庫(99.12)

近況報告を兼ねて

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テレビで「やすらぎの郷」というドラマが放映されたことがあった。
倉本聰の脚本で、往年の大女優、俳優が老人ホームの入居人を演じる「大人向け」のドラマだった。
その舞台となる老人ホームに、川奈ホテルをロケ地に選んでいたのが印象に残っている。
(余談ながら、このホテル自家製のフルーツケーキが好物で、何度注文したかわからない)

もともと熱心にテレビドラマを観る方ではないので、ゴルフコースを発祥とするホテルの、階級社会の面影を残すレトロな趣に魅せられた。
というわけでドラマの内容に立ち入るほど詳しくはないことを予め断っておく。

ドラマは芸能界の引退者による世界を描いており、一般の老人ホームとは異なるとはいえ、認知症や死者の幽霊の出現、若かりし頃の恋の思い出、・・・etc.
華やかさや露出度の違いはあるものの、生老病死の苦悩は万人に平等に訪れる。

まず、認知症の問題は、行政が血眼?になって取り組んでいるように目下の急務だ。
認知症は老化現象だから難しいんじゃない?、と問う私に、最新情報に詳しいスタッフがこう話す。
いえ、いえ最近は認知症を病気と考えるようになってきていますよ。若い時から対策をとることが大事とか・・・
などと言われると、もう遅いかも
と、諦めムードに陥らざるを得ない。
忘れっぽいのは、スマホによる検索に頼り過ぎるばかりではないようだ。

入院中の母が電話口で「お父さんどうしてる?」と突然言った時は、まるで幽霊に出会ったかのようにびっくりした。
それまでふつうに話していたのに。
まだらぼけ、とはこのことか…
父がもう40年近く前に逝ったことを忘れてしまっている!!

認知症状のなかで、時間は一体どのように流れているのだろうか。

私の昨今の大きなテーマになりつつある「時間」
時間を克服すれば、人は不死でいられるかもしれない。
柄にも合わず、形而上学的思考に誘われる今日この頃だ。


※ 川奈ホテルについては以下のページにレポートしています。

https://freeport.at.webry.info/201505/article_7.html


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7月23日、土用の丑の日のランチは、鰻のちらし寿司


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住宅型老人ホームのメリット

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朝5時半、外気はすでに真夏日を予感させる。
冷蔵庫からコーヒーを取り出して飲んだ後、ベッドに戻りリハビリを始める。
入院中にPTに指導されたプログラムを自分なりにアレンジしたものを15分。
これをするとしないのとでは、起床後の動きが違う。

7時半にはダイニングに下りて、セルフでアッサムティーを入れるのが習慣になっている。
いつも早いW氏にあいさつして、いつかしら定位置になったテーブルに座を占めると
夜勤だったTさんが、まず日本茶をサービスしてくれる。
間もなく、トーストができ、温かなスープとサラダ(パワーサラダと名づけられたメニューだ)、ヨーグルトか果物ののったお膳が運ばれてくる。
横着な私は、この一連の流れのなかに、贅沢を感じてしまう。
食材の調達、調理、配膳、下膳、皿洗い、生ゴミの処理に費やす手間と時間が無視できないことを知っているから。

ダイニングにテレビはない。
(紅白歌合戦くらいは皆で観ましょうよ、と提案したことがあったのだが、そもそもチューナーが無かった)
静かな音でBGMが流れている。
後ろのテーブルでOさんが「この曲、何だったかしら」
と、専門の音楽を忘れてしまう健忘ぶりを憂いている。

食後は新聞をざっと読むと、用事がある時は自室に引き上げる。
9時には朝会があり、ラジオ体操、歌唱などが行われ、最後に紅茶などがサービスされる。
家であれば、飲みたければ用意するのも自分である。
自分自身がメイドであり執事であり、料理人である。
この優雅さは、老人ホームでも「住宅型」ならではのメリットだと思う。

入居者はこれから共に老いて行くわけだから、不測の事態が起きることも年々多くなるに違いない。
きれいごとばかりではないのは重々承知の上だ。
健やかな日々を、縁あって「同じ釜の飯を食う」仲間となった人たちと仲良く過ごしていきたい、と願う。

今日はナースと訪問診療などについて話し合った。
「住宅型」にとっては特に大事なことなので、その話は後日報告したいと思います。




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予定のない時は、ダイニングに残って読書タイム
「きだみのる自選集第三巻」を読み始めたところ         ’22.7.21

「暴力批判論」を読む

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一読。難解だ。
用語の概念を正確に把握していなくては読み進むことができない。
まして翻訳となれば、なおさらだ。

一説にベンヤミンは、ナチスの手を逃れ、その逃避行中にピレネー山中で服毒自殺を遂げたと伝えられるが
緻密に言葉を重ねてゆく忍耐強い哲学者の仕事をみてゆくと、やはり自殺説は間違いのような気がする。

本書は、表題作も含めて、短いエッセイ集として編まれている。
「翻訳者の課題」を読むと、翻訳作業を通して、ベンヤミンがいかに「至高の言語」「真の言語」「純粋言語」というものを憧憬していたかがわかる。
翻訳は原作の意味を伝えるものではなく、作品の生そのものを伝えるものだとすれば、様々の言語に翻訳された作品は、相互に補完し合い、「真の言語」へと積分される。
まるで言語の起源へと遡行するようなロマンである。
「純粋言語」とは明らかに「詩の言語」のことだ。
文中に引用されているマラルメの言葉がそれを証拠立てている。

諸言語はいくつも存在するという点で不完全であり、至上の言語はない。思考することは、小道具を用いず、ささやくこともせずに、沈黙のうちで不滅の言語を書くことだが、地上の諸言語の多様性は、さもなければ一挙に見いだされるはずの言葉、具体的に真理自体である言葉が、ひとの口をついて出ることを妨げている。

諸言語の言葉は、文化によって異なる多重性を持つために、完全に一致する翻訳可能な言葉などない。
ベンヤミンは「失われた時を求めて」を翻訳しているが
時とともにフランス語が変質するようにドイツ語も変質する。
変化する言葉が、互いに補完し合い、「純粋言語」に到達するという。
言語は翻訳されることによって、ついに歴史を遡って「純粋言語」が現出する。

「言語に秘められているものがどれほど啓示からまだ遠くにあるか、そしてその秘められたものがこの隔たりを知って、どれほどまで現前しうるかを、そのつど翻訳は検証する」

「暴力批判論」については、その書かれた時代を考えると、マルキシズムやシュールレアリスムの影響を受けていたベンヤミンが、すべての暴力を否定していたわけではないこと、もしくは否定しきれない潜在的な暴力というものが、権力の手に留保されることを認めざるを得ない。

暴力は国家の制度の背後に厳然と控えている。
革命のために肯定された暴力が、革命が成し遂げられた後には、制度維持のために否定される。
しかし一方、国家による暴力は残る。
同時代の戦争に国家による暴力をみる時、あさましいばかりの不条理に慄然とする我々も
今なお死刑制度を温存させている。



※ 暴力批判論 ベンヤミンの仕事 1  ヴァルター・ベンヤミン 著                                                                             
                   野村修 編訳 岩波文庫(’94.3)

発酵の会 チーズとワインde巴里祭

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大学病院に通院し、長い待ち時間にくたびれ果てて、ホームに帰ってくると、「発酵の会」に席が用意されていました。
最初から、間に合わないと思って、参加は無理と諦めていたのですが、心遣いに感謝。
「発酵の会」はすでに2回目になるそうですが、7月14日のパリ祭に因み、この日はチーズとワインで接待されました。

ブルサン、モッツァレラ、チェダー、カマンベール、ミモレット、ハニー&ピスタチオ、ゴーダ、スモークなどのチーズが次々にサービスされ、白ワインとともにじっくりと味わうことができました。

面白かったのは、モッツァレラの中に生クリームが包まれているもの。
オリーブオイルを注ぎながらカット。イギリス産だという、小さな水晶のかけらのように結晶化した岩塩をふって頂きました。
いつも珍しい食材を紹介してくださるのは隣室のMさんです。
塩は赤飯にかけて頂く時に、その違いが際立つと聞いたことがありますが、特別なオリーブオイルといい、イタリアの個性的なワインといい、疲れた身体に生気が蘇るような気がしました。

モッツァレラはフレッシュでヘルシー
本来は水牛の乳からつくられたそうですが、現在市販されているものは大半が牛乳製だとか。
私は、ふだんはゴーダチーズが好きでよく頂くのですが、多分同じ工程でつくられるのでしょう、コンテというフランス産のチーズをやはりMさんから教えて頂いたことがあり、すっかり気に入りました。

でも美味しいものにはリスクも潜んでいます。
ほどほどにしておきましょう。
グルメはグルマンだといいますが、日本人のDNAは少食でしょう。
もっと食べたい、と物足りないくらいに思わせるのがサービスの極意だそうです。
これは和食の板長から聞いた話です。

病み上がりの日に、納豆とカマンベールチーズを、間を置かずに食べて、その味わいがほとんど似ていることに気づきました。
洋の東西を問わず、発酵食品は元気!を再生してくれるようです。
人類の知恵である「発酵」バンザイ!




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モッツァレラチーズをカットすると生クリームが


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特製オリーブオイル


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’22.7.13

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紫陽花、トルコキキョウ、デルフィニウム、ルリタマアザミ


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ヒマワリ、デルフィニウム、ルリタマアザミ

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ニューサイラン、ルリタマアザミ、アンスリウム、スターチス   ’22.7.16