さくら坂のソメイヨシノは一分咲き

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一日で大分開花した。
明日から入院準備のため実家に帰るので、満開の花をこのさくら坂で見ることはできない。
野暮用のついでに、坂を下った。
一昨年は、友人と皇居の外堀沿いを歩いたことを思い出した。
神楽坂で飲むのが目的で花見は口実のようなものだった。
ついこの間のことなのに、すでにコロナ以前が懐かしい…

ソメイヨシノで日本列島を埋め尽くしたいと言ったのは牧野富太郎だったか。
ぱっと咲いてぱっと散る…
その潔さに身の処し方のそれを重ねて、日本人が殊の外愛するのがソメイヨシノだ。
本当は桜のすべてがそうではないはずだから
桜といえばソメイヨシノが代表するようになってからのことだろうか。

ホームに帰ると、ナースが、退院時に「看護・介護サマリー」をもらってきて欲しいという。
副支配人は、血圧計を設置した旨を伝えてきた。
入所者の健康を気遣う姿勢がうれしい。
早く帰ってきたいと思う。


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さくら坂の「ふる里さくら祭り」は4月4日、日曜日に開催されるそうだ。
去年は中止になったけれど、今年はさくら坂の歩行者天国を中止、規模を縮小して行うとか。
桜の古木の枝も、あちこち切り落とされて、心なしか元気がないようにみえる。

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ぽかぽか陽気の昨日
昼下がりにMさんと歩いた時、教えてもらったBAR BODEGA
3月21日、1都3県の緊急事態措置は終了の見通しだ。
張り紙に3/31まで開店時間は15~20とあり「マスク飲食」を徹底する旨を伝えている。

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タイザンボクは花弁の端から変色し、朽ちてゆく…
年々季節が早まっているようだ

春到来 ホームより近況報告

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えらくなんかなりたくない
それが、昨今の若者から聞かれる、珍しくない職業観、生活信条ではないだろうか。
名ばかり店長、名ばかり管理職…
トップダウンの命令に唯々諾々と従いながら、報酬は果たしてその激務とストレスに見合ったものだろうか…
人生の喜び、仕事の醍醐味、余暇の充実…とは何だろうか。
過去の価値観に疑問符を突きつけ、冷静に判断できる若者たちがいる。

この地に越して来た時、岡本かの子の生地が近いことが、その作品を再読するきっかけになった。
最も心に残った言葉は「太郎への手紙」のなかの一節にあった。
パリで画家としての地歩を固めるべく奮闘する息子岡本太郎に宛てて書き送った手紙である。

かの子は太郎に対して、えらくなんかならなくてもいいと思う、と言う一方、
この世を支配している人間が必ずしも立派な人格者ではないことを身通す慧眼が、彼らの下につくことの無念を思わないではいられない。
かの子の情熱と洞察力は、この世での立身を必須とするのだろう。

愉しく生きていられればいい
A嬢も、自分の理想と業績の狭間で悩む上司を間近に見ているが故に、そう考えるらしい。
一見、軽佻浮薄な印象を与える言葉のかげに、彼女の苦悩もにじみ出る。
明るく振舞うその背後に、ある種の諦念が見え隠れする。

当ホームでも大風呂の入浴時間をめぐって入居者とホーム側の間ですったもんだがあった。
それもトップダウンの弊害によるものだった。
そろそろ2年近くの入居によって、見えてきたものが、諦めに変わる頃だ。

利点や長所は空気のように享受するが、短所が目につくようになった。
差し支えないところで、老人ホームの問題点について報告できればと思う。


※ 冒頭の写真
  3/13 ガラスの花器が涼しげな、春らしいアレンジ
  サクラ、チューリップ、クリスマスローズ、六条麦

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3/12 昼食は屋内で
チキンカレー、海老サラダ
 
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3/14 日曜日の朝食 食パンはチェリー入り


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サクラ、菊、オクロレウカ


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3/14 日曜日、春の日差しが惜しくて、昼食もテラスで頂きました。
ワンタン麺、トマトのじゃこ和え、マンゴープリン

「暴君—シェイクスピアの政治学」を読む

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権力が庶民にとってほど遠いものであるからこそ、「権力」の魅力は謎であり、永遠の政治的課題であるように思う。
文学や演劇を通して、読者や観客が権力の極北に位置する「暴君」に魅せられるのはなぜだろうか。
シェイクスピアはそのことを知悉していたがゆえに、リチャード三世、ジュリアス・シーザー、マクベス、リア王、その他の作品を書いた。

シェイクスピア研究者が「暴君」と、その台頭を許してしまう社会の関係について分析する。
それは当然のように今日の政治状況を反映している。
本書を読んで、前大統領トランプを思い浮かべない人はいないだろう。
実際本書は、アメリカで行われる大統領選挙について憂慮する著者によって書かれている。

「愛」について書かれた書物は夥しい。
全てのが著作がそれについて書かれたといっても過言ではない。
愛の情念も、愛のイデオロギーも、凡庸ではあるが縁遠いものではない。
ところが「権力」となるとそうはいかない。
より複雑に入り組んでいるようにみえる。
著者は、暴君の特徴として、際限のない自意識、法を破り、人に痛みを与えることに喜びを感じ、強烈な支配欲を持ち、病的にナルシストで、この上なく傲慢だ、と記している。
あまりにも貧しい性格とはいえ、この情念は暴走するのだ。
そして、その暴走を許してしまう追従者がいて、つい傍観してしまう大衆がおり、あろうことか騙され魅了されてしまう者すら出現する。

リチャード三世は身体的に奇形であるが、彼を演じていた俳優に魅了され、逢引きの約束まで交わす婦人のエピソードが紹介されている。
魅惑したのは役者の身体なのか、あるいは「暴君」の邪悪な心の方なのか、…
その魅力に抗しがたいのは何ゆえか。

「私たちの中の何かが、このおぞましい権力への上昇の一瞬一瞬を楽しむのだ」

フィクションとしての演劇であるために、政治的に穏当に振舞う人間の心の深奥をあぶり出すようだ。

先に述べたように本書は、今日の政治状況の危うさを、シェイクスピア劇を通じて喚起している。
権力に疎遠であるからこそ、シェイクスピア劇は未知の世界への興味を駆り立てる。

著者は最後に次のように述べている。

シェイクスピアは、暴君とその手下どもは、結局は倒れると信じている。自分自身の邪悪さゆえに挫折するし、抑圧されても決して消えはしない人々の人間的精神によって倒されるのだ。

「人民がいなくて何が街だ?」

※ 暴君 シェイクスピアの政治学  スティーブン・グリーンブラッド 著
                            岩波新書(’20.9)

「お母さん、ノリコ平気よ!」 大村典子さんに学ぶ

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「次の手術」に備えて、リハビリの欠かせない毎日だ。
リハビリといっても、自然体で、できれば楽しく実行したいと思う。
でなければ続かない。

リハビリに限らず、日々軽い運動を日課に組み込み、習慣となればしめたもの。
ホームの入居者であるOさんから、「大村典子のイキイキ音楽体操」というのを教えられ、CDを聞いてみた。
Oさん自身の制作によるもので、現在百歳を越えるというお母さまが、音楽が流れだすと表情までいきいきとしてきて、楽しんで体を動かすことができたという実体験から思いつかれたという。
童謡、唱歌から民謡まで、ポップス調、ゴスペル風、ボサノバ、ロックなどに、懐かしい曲を乗りよくアレンジしている。
(編曲は、看護大学校で教えていたOさんらしく、学生たちに担当させたそうだ)
Oさんは音楽の専門家だけれど、CDの制作にあたっては、体操についても熱心に学んだあとがうかがえる。

最初は曲のスピードが少し早いかな、という印象を抱いたが、体操のトークガイドが付いていて、それに合わせてみると動きはゆったりと無理のないものになっている。
曲にかぶったOさんの声は、そのはりと持ち前の滑舌の良さで、音楽体操に活気を与え、パワーを注入してくれるようだ。

Oさんはもともとヴィヴァルディの研究で認められた人だ。
それも人物研究ではなく、作曲法などのマニアックで専門性の高いものだ。
その後、ピアノ教育に携わるが、研究者が教育者に転ずる、その柔軟性に何よりも感心させられる。
それも、稽古の嫌いな子に、いかに楽しくピアノを学ばせるか、という視点をもって取り組まれたところに、Oさんの人柄を感じる。

その後、Oさんの著作を読んで、お母さまのオープンでおおらかな教育法が、実を結んだ実例をみるような思いがした。
冒頭の著作は、脊髄カリエスを患ったことがあるというOさんの「闘病記」として分類されることもある本だが、教育一般に示唆するところが大きい。

人生に選択肢は無限にあるようにも思えるが、適性、天性がいかんなく発揮できる場を見つけられた人は幸せだ。
Oさんは今日も、お母さまの老人ホームに向かう。
そのきびきとした足取りには迷いがない。


※ お母さん、ノリコ平気よ!  大村典子 著  草思社(’92.4)


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典子のハートフル・コミュニケーション  大村典子 著  
                  音楽之友社(’00.2)



近況報告 ホームに帰還して

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退院後、実家に滞在している間に、新しいパソコンを据え付け、設定から何からいとこにしてもらった。
パソコンは富士通のサイトから型落ちしたものをカスタマイズした機種を注文した。
パソコンの無い生活はいっときでも、もう考えられない。
コロナによるリモートワークの広がりをみても、これからは「非接触」がキーワードになるだろう。
実家とホームの二重生活では、2台のパソコンをいかに同期させるかが課題だ。

ホームに帰還すると、懐かしいお雛様が出迎えてくれた。
着付師が西陣織の衣装をまとわせた雛は、頭がまた素晴らしい。
昨今はプラスティック製が主流だそうだが、こちらは陶器である。
内裏雛は上品で五人囃子はあどけない。
随臣はイケメンで、仕丁はユーモラスだ。
宮中の生活をいきいきと彷彿させるよう…

昨日は隣室のMさんと街を散歩してみた。
誘ってもらわなければ、まだ外を歩くのはおぼつかない。
Mさんは散歩しながらも、お店を新規開拓するなど、さまざまな発見をする人だ。
夕食に酒屋で見つけたというイタリアワインをごちそうになった。

ホーム帰還後、溜まっていた郵便物を片付ける。
年度末とて、役所に提出する書類を三通つくる。
一仕事終わった後で、いとこより贈られたピエール・ルドンのチョコレートに手をつけた。
チョコレートバーなどではないセピアの宝石!
苦いコーヒーとの絶妙のハーモニーが手術疲れや雑用で困憊した身を労わってくれた。




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スカシユリにレンギョウ


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カーネーション、トルコキキョウ、バラ、アルストロメリア


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太鼓を叩く童子が隣家の少年に似ているといつも思う。


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3/6 沈丁花がさかりです



リハビリは片手間ではできない

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変形性股関節症で人工関節置換術を受けてから4週間近く経った。
今日もホームの廊下を行ったり来たり、インターバルをとりながら、ふつうの歩行に加え、横歩きや太ももを高く上げての歩行を繰り返す。
戸外でのウォーキングははるかに疲れるので、自信のない時は、廊下での歩行や自室での筋トレ、スクワットにとどめておく。

ホームのナースは退院後の私がどんな状態で戻ってくるのか、心配したらしい。
回復力の早さに驚かれた。
しかし、外を歩く時、足が鉛のように重いのはどうしたことか。
いつになったらフットワークの軽さをとりもどせるのだろうか。

病院の若い看護師に「日にち薬」という言葉を教わった。
焦っても、回復の要は時間である。
またリハビリで筋力をつけることの重要性を諭された。
といってもリハビリ病院に転院したり、通院することもなく日常に復帰した。
考えてみれば、入院する前から、痛みを避けて運動量の少ない生活を送っていたのだから、回復に倍の時間がかかるのは仕方がない。
焦ることの不毛を思い、粛々と地味な運動を反復する。

当初はリハビリなど片手間にできるものと楽観していたが、とんでもない。
リハビリを優先順位の筆頭に位置づけ、他の雑用には目をつぶって、まずリハビリに時間を割く。
そうしなければリハビリなどできるものではない。
そうした覚悟は以前の私にはなかったものだ。
成果は少しずつでも実感できるので、自分を守るのは自分だけ、と孤独なトレーニングは続けられるのだ。

一昨日、ホームのお仲間が逝去された。
懸命なスタッフによる看取りの介護に頭が下がった。
ひとり旅立たれる寂しさは慰めようもないが、看取りのスキルが癒しの文化へと高められるのは、介護する側の成長があるからだ。

亡くなられたSさんは日頃からウェルネスを心がけ、決して弱音を吐かない気丈な方だった。
廊下を歩きながら、何度Sさんの姿が頭を過ったことだろう。


※ 冒頭の写真は、ホームでの昼食(2/20)
  中華丼、ぜんまいのナムル、ワンタンスープ、杏仁豆腐


映画「ミッドウェイ」を観て

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コロナ禍のなかで、映画館や美術館に行く習慣をすっかりなくしてしまったので、居ながらにして楽しめる上映会はありがたい。
ホームで、以前からスタッフにリクエストしていた「ミッドウェイ」が上映された。

日米公平に描かれている、と定評のある本作品。
映画的には、VFXを駆使した航空戦のリアリズムに圧倒された。
映像の面白さを存分に堪能させてくれる。
戦後75年以上が経ち、映像のみで知られる太平洋戦争が、実際行われたということ自体、今では非現実的な感じがするくらいだ。

ミッドウェイ海戦は、それまで戦力で勝っていた日本が、敗戦への道に転じるきっかけとなった重要な戦闘だった。
これからずるずると酸鼻な敗走を続け、ついに無条件降伏することになった史実から、まず私たちは、戦争をはじめてはいけない、という教訓を導き出す。
つい先ごろ亡くなった、昭和史研究の半藤一利の言葉でもある。
タカ派と言われた政治家でも戦争を体験した人間ならば、はじめるのは簡単でも終えるのは難しい戦争というものの実態を知悉していたからこそ、一触即発の政治局面で慎重に行動したものだ。

物量で勝るアメリカに対して持久戦で臨めば負けるのは必至である。
しかし、奇襲戦で有利につき、敵国から譲歩を引き出そうという考えは甘かったと言わざるを得ない。
たった3日間の戦いは、大型空母4隻の損失を持って、戦場を離脱することになった。
戦争には錯誤と偶然が重なり、当初構想したシナリオ通りに進行しないのはあり得ることだが、本作戦においては、日本海軍の暗号がアメリカによって解読されていたことが大きな敗因だったとはよくいわれることである。
本作戦で中心となった南雲中将率いる第一機動部隊は、様々な点で当時世界最強の実力を評価されている。
当時の日本軍がアメリカよりはるかに優勢であり、非常に恐れられていたということが、今の私たちには不思議でさえあるのだが。

ゼロ戦の活躍を見れば、日本の技術力の高さ、パイロットの血のにじむような訓練の結果、…etc.これらが戦争ではなく、平和のために使われたなら、と考えてしまう。
戦争はリアルに描けば、とても映像化できないだろう。
ただ海空戦のみが、華々しい死を抽象化して、観る者に矛盾した感情を引き起こす。
戦争は、組織として動くことの究極の合理性を知らしめ、同時に危険を喚起する。

スタッフの一人は叔父さんが空母加賀に乗艦していたそうだ。
加賀は一昨年、ミッドウェイ環礁の深海から船体の一部が発見され話題になった。
翌朝、特攻隊の生き残りであるY氏に映画の感想を伺うと
アメリカ側の映画だから、理解できないところもありますね
ということだった。
直接体験者の話を聞く時間はあとわずかしか残されていない。



大いなる眠り

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よくよく考えて準備したつもりでも、いざ入院となると、とるものもとりあえず、あたふたと病院に駆け込むことになる。
何も用意せずともレンタルで間に合う昨今。
身内の面会さえままならぬのであれば、却って家族を煩わせることもない。
コロナへの警戒から、病院は今までより以上に除菌・衛生に気を遣っている。
一方、医療体制の逼迫から手術が先送りされる事例も少なくない。

不幸中にも幸いなことに、紹介状持参で診察を受けてから、間もない日に手術の日取りが決まった。
整形外科医はとても若くみえた。
にわかに心配になり、次の受診の時に、妹にも診察室に入ってもらった。
「どう思う?」
「自信がありそうだわ」

都立の病院は建て直されてから10年ほど。
手術室は15室。
眺望がよく、3階までの吹き抜け空間が三密とは程遠い、換気の良さを伺わせる。

入院して翌日が手術である。
退屈しのぎに、レイモンド・チャンドラーの「大いなる眠り」を持参した。
大いなる眠り、つまり「死」である。
偶然とはいえ、縁起でもない。

フィリップ・マーローが主役になる第一作である。
女だって、フィリップ・マーローのように生きたいと思う。
組織に属さず、一匹狼でハードボイルドに生きることの不可能性…
それがあまりにも明瞭なので、ヒーローの生きざまは永遠の理想となる。
時に妥協しつつも、誠実を貫こうとするヒーローに憧れるのである。

人間通のチャンドラーの観察眼は、医者という職業についても、シビアな視線を注ぐ。
医者はインターンの時代に人間の秘密を知りすぎているので、人間について興味を失っている、のだそうだ。

執刀医のM先生も、患部だけ見て、まるごとの患者は見えないのかもしれない。
血圧が安定せず、術後降圧剤のせいで、一時血圧が60まで下がった。
看護師の慌てる様子に、あわや「大いなる眠り」が訪れるところだったのかもしれないな、と思った。
死はいつも隣りにある。

運を左右するのは何だろうか…
おかげさまでリハビリも順調に経過し、2週間後には無事退院することができた。


※ 大いなる眠り  レイモンド・チャンドラー著  村上春樹 訳
                早川書房(’14.7)
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ブロードキャスト 港かなえ 著  角川文庫(’21.1)
平日には、1階にあるコンビニが日用品をワゴンにぎっしり積んで、病棟をめぐる。
文庫本も4冊ほど積んでいたので、本書を読んでみた。
高校生の青春小説。昨今の高校生気質がうかがわれる。
テレビドラマやラジオドラマの特徴や書き方を指南してくれる、という余得もある。

老いをみつめる 老人ホームの日常

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X氏がA氏に、私が遭遇する限りでは、2度目の談話を試みている。

「ところで、奥さんはどうされました?」
「まだ病院です。面会ができないので」

昼下がりのダイニング・ルームでこんな会話が交わされる。
実はA氏の奥様は、昨年すでに他界されている。
A氏の意向で、ホームの住人には敢えて伝えられないままだ。
風聞で知った人も、A氏との付き合いのなかで、その話は封印されてしまっている。
何となく気まずく、打ち解けた話ができない。

人の死はしぜんなことである。
老いて、平均寿命を越えての往生となれば、喪失感も諦めという名の癒しで償われる。

それが老人ホームでは、ネガティブなニュースととらえられる傾向がある。
皆でお悔やみしたい、という願いはかなわず、宙吊りのままだ。

A氏の気持ちはどのようなものなのか。
親交の浅い住人たちだが、同じ釜の飯を食う仲である。
命の儚さを思い知り、寂しさも一入だ。
一方、A氏の心の内が推し量られるような気もする。
私は悔やみの言葉を言うのも聞くのも苦手である。
できれば無言で通したいほどだが、そうもいかない。

1年7カ月余の間に、二人のお仲間を喪った。
最近具合が悪く、自室に食事を運んでもらっている人もいる。

元気な姿を見せていても歳は争えない、ということがここへ来てよく分かった。
老母の日常が気になり、電話をする。
相変らず、能天気な明るい声を聴いて、いっとき安心する私がいる。


※ 冒頭の写真はエレベーターホールの花
  
  明後日より実家に帰ります。
  一カ月近い滞在になりますので、ブログはしばらくお休みします。
  またお会いしましょう。

老いをみつめる 

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老人ホームで生活するということは、紛れもなく老いを見つめつつ、自分に残された時間について考えることだと誰しも思うだろう。
ところが、日々は人間臭い出来事を満載しながら、無自覚に流れてゆく。

若いTさんは、まずは介護福祉士の資格を取るために勉強中だ。
一方、仕事は仕事で、待ったなしで種々の介護とサービス、環境整備という名の清掃などに、明け暮れる。
夜勤も少なくない。
住宅型のホームで、体力にまだ余裕のある利用者は、Tさんを励ますのだが、一抹の後ろめたさが過らずにはいない。
すべてのサービスには対価が伴う。
だからといって、若者の奉仕(労働)を当然の如くに受け取れない、滓に似た負い目が残るのだ。
家族や夫婦、恋人たちの間に介在するとされる愛という名のイデオロギー。
愛は常に対価を伴う笑顔(しばしば職業的)に勝ると言えるのだろうか。

「介護がしたい」と言って、当ホームを辞めた人がいた。
「どんなにがんばっても家族のそれとは違うんですよねえ」とため息をついていたのを思い出す。
それはそれで、尊い奉仕である。
ほとんど本能と呼ぶべき行為である。

人類の歴史のなかで、介護あるいは老いはどのようにとらえられ、老人はどのような待遇を受け、看取られてきたのか。
その断片的事実から、私たちもどう振舞えばよいかを学ぶことになるだろう。

大晦日だったか。
お風呂に行こうとして、間違ってロビー階のボタンを押した私は、開いた扉から、トレーナー姿も甲斐甲斐しく、たったひとりで正月の設えに奮闘するTさんの姿を目撃した。
目が合うと、照れくさそうに笑った。
静かな夜だった。

孤独な夜勤が明ければ、住人たちは、緋毛氈の上に美しく飾られた花と、お屠蘇セットが行儀よく並んでいるのを目にするばかりだ。
新年を迎える清々しい気分とともに。

※ 冒頭の写真はエレベーターホールに活けられた花
  蘭を入れると全体が引き立つと、生け花担当Kさんの言葉。

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1月15日のレイトショーは「釣りバカ日誌」
22作品中の第一作(1988)を上映。
観客は男性2名に私だけ。
ビギナーであるはずの会社社長(三国連太郎)の釣り姿の方が堂に入っている。
かつて三國連太郎が「東洋のジャン・マレー」と言われたことを知っている人は今ではどれくらいいるだろう…

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1月16日の昼食 豚ばら大根 青梗菜の煮浸し きんぴらごぼう


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1月15日 ガーベラ ユーカリ コアラリーフ ミモザ モカラ スプレーバラ ベアグラス カーネーション


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1月15日 アマリリス ボケ