青い薔薇を夢見て 続・生田緑地ばら苑にて

PB070872.jpg  プリンセス ドゥ モナコ


「青い」薔薇というのは、育種家にとって未だに見果てぬ夢なのだろうか。
この日、ばら苑でいくつかの「青い」バラを観たが、そのすべてが青というより青紫に近い。
どこか憂いを含んだ、ロマンチックな青である。

ばらには本来、青の色素がなく、品種改良で青いバラをつくることは不可能だという。
そこで遺伝子組み換え技術を使って、パンジーの遺伝子を導入することにより、青いバラが誕生した。

しかし、真青なバラではない。
純一な青いバラは大倉陶苑のティーカップの艶やかな陶磁の表面に咲いている。
ブルー・ローズだ。
何故人は薔薇に美を見るのか。
そもそも人は何をもって美しいと感じるのだろうか。
小林秀雄が言ったように、美しい薔薇があるだけ、となれば何も説明したことにはならない。

薔薇と人の間には深い因縁があるのかもしれない…

フラミンゴと名づけられた薔薇はまだたくさんの蕾をつけていた。
閉園後も咲き続ける薔薇は、一体だれを慰めることになるのだろうか。
冬薔薇(ふゆそうび)という言葉にも魅かれるが
今度は春の華やかなバラを観に来よう。


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プリンセス マーガレット ローズ


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プリンセス ドゥ モナコ


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トワイス インナー ブルームーン


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アルブレヒト デューラー ローゼ


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伊豆の踊子


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ホワイト クリスマス


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ホワイト マスターピース


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桃香


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マリア カラス


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ピーター フランケンフェルト


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ウィンナー ワルツ


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シャノン


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クローネンブルグ

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芳純

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マダム ヴィオレ

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ライラック タイム

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マグレディース イエロー                ’19.11.7






薔薇の名前 生田緑地ばら苑にて

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花の美しさというものはない 美しい花があるだけだ※
と、言ったのは小林秀雄だったか…

タクシーは丘陵地を上り詰め、間もなくばら苑の入口に着いた。
初秋の爽やかな微風が、薔薇の香を運んでくる。
たとえ目が見えなかったとしても、そこがばら苑であることに気づいただろう。
ローズ・ウォーターや、紅茶に仕込むあの薔薇の香である。

訪ねたのは、あと数日でばら苑も閉じようという秋晴れの日だった。
花付きは春の薔薇に劣るといわれるが、濃い色が透明な秋の日によく照り映えている。
大輪の薔薇は、今まさに崩れようとして、衰退へと向かう時ですら女王の風格と威厳、そして滅びの豪奢に彩られている。

視線は花びらの縁から花芯へとおりてゆく。
黄と紅のグラデーションが無垢の白へと変化する。
ひとたび惹きこまれるや、得も言われぬカーブを描いて花弁を折り重ねた姿から視線を外すことができなくなってしまう。

そうして時を過ごすうちにいつの間にか風が強くなってきたようだ。
花首は激しく振幅し、いっとき収まったように見えても再び揺れ出すのだった。

美しく形の整った一輪を求めて、接写のチャンスを狙う人々…
ばら苑は、案内から手入れまでボランティアの力によって維持されているようだ。
向ケ丘遊園が閉じる時、ばら苑を惜しんで存続を望む市民が多かったことから、その後川崎市が受け継いで、生田緑地の一部として管理している。
この日も、薔薇の根もとで作業に余念がない人々を多く見かけた。

※ 美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。
                   小林秀雄「当麻」より


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ブラックティー


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スーパースター


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天津乙女


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ガーデンパーティ


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ガーデンパーティ


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ウィンナーチャーム


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アルテス


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ジュード ジ オブスキュア


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L.D.ブレイスウェイト


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ピース


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ピース


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ピース


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ラスベガス

コートールド美術館展 初秋の上野にて

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秋晴れの週日、「コートールド美術館展」を観るために都美術館を訪ねた。
コートールドという聞きなれない名称に、「魅惑の印象派」という副題。
「フォリー=ベルジェールのバー」がポスターになっていたので、マネの作品をたくさん観ることができるのだろう、といつの間にか私の期待はマネに絞られていた。
実際はそうではなかったのだが…

コートールド美術館というのは、実業家サミュエル・コートールドのコレクションをもとに設けられたロンドン大学附属コートールド美術研究所のギャラリーだそうだ。
印象派及び後期印象派の蒐集に定評が高いという。
今回、その美術館が修繕のため休館となり、収蔵品が貸し出されることになった。

サミュエル・コートールドはその祖先が17世紀に宗教的迫害を受けて、フランスからイギリスへ移ってきた一族で、絹織物業を営んだ。
それまでイギリスではあまり評価されていなかった印象派を蒐集したサミュエル・コートールドはレーヨンの生産によって莫大な富を築き、短期間で質の高いコレクションを形成したという。
印象派が大衆の嗜好にあうことに気づいた実業家の慧眼はさすがだ。

比較的小さなギャラリーで小品が多かったが、視点の工夫によって楽しい展示になっていたと思う。
何よりも、久しぶりに油彩の筆触の魅力に引きこまれた。
私と同行のNさんともども、ルノアールの「春、シャトゥー」に密かにため息をついていた。
緑色の濃淡と白だけのタブローがそもそも私たちの何を刺激したというのだろうか。
戸外の光を反映する春の野と木立という自然、それを写した点描の油絵具の筆致が、自然への賛仰をあらわしていたからだ。
よい絵とはその中に鑑賞者自身が参入したいと思わせるものだ。
文字通り引きこまれるのである。

11月というのに、桜の木はまだほとんど紅葉していなかった。
いつになく秋の遅い上野の森だった。


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クロード・モネ 秋の効果、アルジャントゥイユ(1873)

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生田緑地民家園

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三連休の初日の土曜日、生田緑地を訪ねた。
生田緑地には、ばら苑、民家園、岡本太郎美術館、かわさき宙と緑の科学館などが、丘陵の広大な緑地一帯に点在している。
誤算だったのは丘陵地であること、従ってそれぞれの施設へのアクセスが車ではなかなか難しいということだ。
しかし、その分風景に変化があり、日本民家園では、日本各地から移築された民家が、周囲の自然にうまく調和しているように感じられた。
文化財を保存するひとつの手段ではあるが、風土から切り離された移築民家というものにあまり興味を持てないでいた。
特に、九十九里の漁村の家などは、丘陵地に移築するについては、相当工夫がいったのではないだろうか。
それにしても古民家が23棟も移築されているとは。
見応えのある野外展示だった。

いくつか紹介してみよう。
上掲の写真は「旧佐々木家住宅」
長野県佐久郡の名主の家で、建築年代は享保16年(1731)
国の重要文化財に指定されている。
残された普請帳や記録によって家の歴史がわかる点でも重要な民家だそうだ。
当時、千曲川の氾濫の影響によって移築されたものという。
千曲川は昔からよく暴れた川であり、治水に苦しんだのは昔も今も変わらない。
長大で軒が高く、中二階の採光のために屋根の東側が「かぶと造」になっている。
この中二階は村の寺子屋として使われていた時期があったということだ。

馬宿、油屋、武家屋敷、薬屋、水車小屋、五箇山及び白川郷の合掌造り、網元の家、沖縄の高倉、蚕を祀るお堂、船頭小屋、南部の曲屋…etc.
茅葺、板葺き、瓦葺
平入、妻入り
考えてみれば、馬など家畜と同居していた時代は、それほど昔のことでもない。
囲炉裏に火が入り、軒下ではわら草履を編んでみせる人がいる。
私たちの祖先が、村社会の濃密な連携を背景に、命を繋いできた歴史を、時に生々しく感じた。
茅葺屋根の下、土間の暗がりで目を凝らせば、結(ゆい)なくしては成り立たない生活が蘇ってくるようだ。

この300年の間に人の生きる環境は急激に変化した。
歴史は、支配階級や技術革新によって、急変することもあれば、長い停滞期というか安定期が続くこともある。
天災は有無を言わさぬ激しさで人間の生活を破壊するが、粘り強い営為が危機を克服し、私たちはサバイバルしてきたのだ。




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旧江向家住宅 国指定重要文化財 富山県南砺市 18世紀初期
五箇山の合掌造には、庄川本流と支流の利賀谷(とがだん)で違いがみられるという。
こちらは庄川本流系で、妻入り、入母屋造風、田の字型の間取り。
正式な座敷である「オマエ」には、浄土真宗の盛んな地域のため仏間がついている。

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旧山田住宅 富山県南砺市 18世紀初期
ダム工事で沈んだ5戸のうちの1戸 五箇山にありながら白川村(岐阜県)に通じる特徴があるという。
「オマエ」の向こう、日常生活の場「オイエ」の囲炉裏が見える。
養蚕も行われていた。桂集落は五箇山の最奥に位置し、長らく日本の敗戦も知らなかったという話の残っている。
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作田家住宅 国指定重要文化財 千葉県山武郡九十九里町 17~18世紀
九十九里浜地引網漁の網元の家

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沖永良部の高倉 19世紀後期


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旧太田家住宅 国指定重要文化財 茨城県笠間市 18世紀後期
2棟が軒を接して建つ分棟型(ぶんとうがた)の民家
曲屋の影響を受けた分棟型ではないかといわれている。
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屋根が2つあり、家の中に大きな樋がある。


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旧北村家住宅 国指定重要文化財 神奈川県秦野市 貞享4年(1687)
墨書により建築年代及び大工の棟梁の名が明らかになっている。
非常に優れた建築で、日本有数の民家のひとつとされる。
日常生活の場「ヒロマ」は、竹簀子と板の間で使い分けられ、竹簀子には必要に応じてムシロを敷いた。
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旧清宮家住宅 川崎市多摩区登戸 17世紀後期
当園にほど近い登戸にあった。
屋根の頂上を土の重みで押さえ、その土が落ちないよう草花が植えてある。
「芝棟(しばむね)」と呼ばれ、武蔵国西部の素朴な農家の姿を伝える。
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蚕影山祠堂(こかげさんしどう) 川崎市麻生区 文久3年(1863)
養蚕の神「蚕影山大権現」を祀った宮殿(くうでん)とその覆堂(さやどう)からなる。
芝棟になっている。
養蚕の神・金色姫の苦難の物語を彫刻した両側面に注目!
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旧伊藤家住宅 国指定重要文化財 川崎市麻生区 17~18世紀 
日本民家園誕生のきっかけとなった川崎の民家。

ラウル・デュフィ展 絵画とテキスタイル・デザイン

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フランスの画家デュフィが、モード界の帝王と呼ばれたポール・ポワレとどのようにコラボレーションしたのか。
フェリス女学院准教授・朝倉三枝氏の講演の行われた日に、パナソニック汐留美術館「ラウル・デュフィ展」に出かけた。
講演前に展示を観たが、絵画と当時のファッションとの関係がよく分かる、楽しい展示だった。

ポール・ポワレは、ウエストを苛酷に締め付けるコルセットからの解放など、ファッションの近代化の先駆けをなし、モード界のスルタンともいわれる存在だ。
一点物のオートクチュールをデザインするクチュリエとして、顧客はブルジョワの上流階級である。
純粋芸術であるタブローがテキスタイルに発展し、女性が身にまとう服になるという現象が起きたということは、いかにも時代を語って興味深い。
まさに複製技術による大衆化の時代を予告している。

アンリ・マチスの影響を受けたという画家の色彩は、あくまで明るい原色使いで、闊達で即興的な描線からはまるでメロディーが流れてくるようだ。
デュフィの作品が奏でる音楽性は、教会のオルガン奏者も務めた父とヴァイオリン奏者だった母の影響が大きいと言われる。
軽快なタッチ、鮮明な色づかいは、応用芸術、総合芸術に相応しい。
デュフィの色彩のマジックに魅せられない人はないだろうと思われた。

それを衣服に活かそうとしたポワレの発想も一時代を画すものとなった。
朝倉氏の談によれば、それまでリボンやフリル、レースなど立体的な装飾がほどこされていた衣服の平面を、鮮やかな色彩、斬新な文様のテキスタイルが埋めたということだ。
お針子の手仕事に頼っていた衣服の装飾が、画家の大胆な発想と、やがて大量生産へと発展する型染に取って代わられる。
因みにこの頃渡仏した藤田嗣治も、小紋からヒントを得たテキスタイルを制作しているそうだ。

デュフィの色彩とタッチは、今日の女性でも身に着けるものに応用したくなる明るさ、形態のリズミカルな連続性といった条件を満たしていたのだ。


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コンサート(1948)

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黄色いコンソール(1949)

灯火親しむべし ジョージ・オーウェル著「パリ・ロンドン放浪記」を読む

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今度の台風で、避難所が路上生活者の受け入れを拒否した事実がニュース報道された。路上生活者への対応は自治体によって異なるようだ。
報道されたのは台東区の例だったが
お役所仕事の典型をみる思いがした。
ナチスの残虐行為も官僚制の結果だった。
命令を遂行したまでです。
と、アイヒマン裁判で被告は主張している。

本書はジョージ・オーウェルのデビュー作で、ルポルタージュ文学の傑作とされている。
1927年から3年間にわたる、パリ貧民街とロンドンの浮浪者の実態を描いている。
作者自らが最下層の生活を体験し、貧しさは罪なのか、浮浪者とは何者か、と問い、社会通念の矛盾を衝いている。
本書で描かれる浮浪者の収容所の劣悪な環境は、社会の劣等者に快適な生活を提供しては甘えを蔓延らせることになる、という認識があると、オーウェルは指摘する。
因みに当時のイギリスでは物乞いは犯罪とみなされた。

現在の日本の状況が、両大戦間のパリ・ロンドンにオーバーラップする。
全体主義・管理主義による官僚制の恐怖は、ジョージ・オーウェルが「1984」で活写した。
私は、マイケル・ラドフォード監督の同名映画(1984)を観て、とてつもなく暗い近未来社会の描写に暗然たる思いがしたものだ。
官僚主義というとカフカ原作、オーソン・ウェルズ監督の映画「審判」も思い起こされる。
こちらは、華麗な銀幕のモノクロームに圧倒され、恐怖すら美しく感じたものだが。
1982年の映画「ブレード・ランナー」も想起された。
人工知能が官僚機構に親和することを予感させる。

先の台東区の例は、マニュアルがないとにっちもさっちもいかない役人社会の弊害を明らかにした。
人間的に生きる、とはどういうことか、特に最底辺の社会では切実に問われている。
貧困、介護、いじめ、ブラック企業…
格差社会での富の偏在が、いかに人間性を踏みにじる結果を招くか。
当時の作家・ジャーナリストの告発は、今日も未だ解決していない。

※ パリ・ロンドン放浪記  ジョージ・オーウェル作
              小野寺健訳  岩波文庫(’89)






「審判」 原作:カフカ 監督:オーソン・ウェルズ フランス1963年公開


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読書の秋はまた、芸術の秋、美術の秋でもある。
本書を読んでマネの革新性を意識する美術ファンは、力の入った企画展目白押しの上野に行く愉しみも倍増しようというもの。
レアリズム、印象主義、モダニズム、脱構築…
マネ以後の流れの源がまさにマネの絵画に起因するという見方はとても刺激的だ。
マネを好む人は、まず筆触とマチエールの美しさに魅せられる。
マネは、歴史や文学から解放された絵画の自律性を意図したのだろうか。

※ エドゥアール・マネ 西洋絵画史の革命  三浦篤 著
                      KADOKAWA(’18.10)



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作品の道具立てに、ソフトドリンクが脇役として意外に効果的な役割を果たしているものだ。
秋の夜長、とっておきの紅茶や、眠気覚ましの珈琲とともに、アンソロジーを読むのは愉しい。
夏目漱石に「明けたかと思ふ夜長の月あかり」という句がある。
漱石も徹夜で書見をしていたのだろうか…

※ ロマンチック・ドリンカー 飲み物語精華集 
               長山靖生・編  彩流社(’19.8)

短篇を読む愉しみ 「20世紀イギリス短篇選」

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短篇と長篇の違いは、密度の違いだ。
長篇は歴史、時代、風俗、人間を描き尽くそうと目論まれ、滔々と記述されてゆく。
一方、短篇は人生のある断面を切り取り、フォーカスすることによって、日常見逃しがちな風景や生活感情などを、鮮やかに浮き彫りしてみせる。
詩ほど短くないが、詩に近い衝撃を受けることもあれば、とりたてて言語化されることもなかったささやかな感情や感覚が時代や国境を越えて共感を呼び起こす。

漢語に「灯火親しむべし」という言葉がある。
秋の夜長、何ものにも煩わされず、短編のアンソロジーなどのページを繰る愉しさは、日頃のストレスへの復讐にも似た快感がある。
ダイニングの一角のデスクを借りて、20世紀イギリス短篇選(上)(下)を読み終えた。

上巻は、主に第一次大戦前から第二次大戦中に発表された作品が収められ、下巻は1950年代から70年代に発表された作品を収録している。
時代相がくっきりと浮かび上がる作品もあれば、イギリス人好みのぞっとさせるような怖いショート・ストーリーもある。
書く対象となる人々が下層であるか上流であるかでまた作品の味わいも異なる。
本質的に平等志向が強いと言われる日本人からみると、階級制への諦念を強く感じる。
全体にイギリスの階級社会を強く意識させずにはおかないが
戦後になると女性作家が増え、「階級制や人種差別に寛容になった」(小野寺健)

20世紀のイギリスは、帝国の絶頂期を終えて、長い斜陽の時代を迎えた。
人々がその将来に漠然とした不安を感じていたことを編訳者・小野寺健は指摘する。
植民地インドに赴任したイギリス人がやがて狂気に陥る「船路の果て」など、当時の植民地の空気感を伝え、フランスのマルグリッド・デュラスを想起させる。
ジェームズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフ、D.H.ロレンスの短編もあれば、下巻の作家は私にとってほとんどが未知であった。

作者が死してなお、作品の生命が消えないでいるという当たり前の事が、しみじみうれしい秋の夜である。


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岡本かの子 生誕130周年記念の集い

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NPO法人高津区文化協会が主催する、上記タイトルの集いに参加しました。
川崎市の新住民にとって、二子玉川といえばまず岡本かの子でした。
意外なことに、地元でもすでに岡本かの子の名を知らない人も多く
今回の催しですら、彼女の著作を読んだことのない参加者もいてびっくりさせられました。
息子の岡本太郎は有名なのに。

少しでも多くの人が岡本かの子の著作に親しみ、その文学の香の豊潤さを再認識する機会となれば、という意図で企画された記念の集いでした。
プログラムは、日本近代文学の研究者で文芸評論家の伊中悦子氏による講話、地元在住の彫刻家・梶原瑞康氏創作の「鬼子母神像」の紹介、関根淳子の一人芝居「鬼子母の愛」(三味線:新保有生)、神田京子の講談「岡本太郎」という、盛りだくさんの充実した内容でした。

岡本かの子を知らない人でも楽しめ、彼女の生き方に興味を覚えて、作品への呼び水となるよい企画だったと思います。
岡本かの子の文学に精通していても、一人芝居を観て改めて、母の愛の深さ、複雑さに思いを馳せた人もあったのではないでしょうか。
関根淳子さんはもう10年もこの演目を演じ続けているということで、非常にこなれた洗練された芝居になっていました。
舞踊の美しさに朗読と台詞の声音、抑揚が加わり、構成には間然とするところがありませんでした。
「子殺し」が頻々とニュースになる昨今、普遍的であると同時に、非常に今日的テーマだと思います。

講談の神田京子は、とにかくしゃべりのうまさが圧倒的で、すでに周知の事柄を語るにつけてもその話芸には観衆を惹き付けてやまない魅力があり活力に満ちていました。
伊中悦子氏の講話からは、苦しみ抜いた人として仏教への道が開かれた岡本かの子についてまだまだ知りたいという思いを深くさせられました。
かの子の作品からは芥川龍之介をモデルにした「鶴は病みき」と、「老妓抄」がピックアップされ解説が付されました。

岡本太郎は生前、母・岡本かの子について、文壇や評判を気にし過ぎていた、と語っていたとのこと。
腺病質であるがゆえに生への希求が人並外れていたかの子は、肉食系女子の印象が強いですが、この際読み直す側面もあるのでは…、とふと考えさせられました。
(川端康成はかの子を評価していたが、谷崎潤一郎はそうではなかった)
それにしても何と瑞々しくも肉感的な表現が散りばめられていることでしょう。
加えて、手放しのナルシズムは、気弱な読者の無意識を代弁するものでしょうか…(^^;)

わが家の遠つ代にひとり美しき娘ありしといふ雨夜夜桜

うつらうつらわが夢むらく遠方の水晶山に散るさくら花

ミスター・ゴッド・ハンド その死を悼む

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その医者でなければできない手術というのがありますね。
ついこの間、柔道整復師の先生とそんな話をしたばかりだ。

レントゲン写真を見て、ため息をつく先生。
「あの先生はどこか違うんですよ」と、同業者の声…etc.
30年耐えている人工関節の膝の話に
上手な先生なのですねえ、とびっくりする人もいる。

ミスター・ゴッド・ハンドは、関節注射でも、繊細な手つきで、決して痛くなかったのは何故だろう…

「私、失敗しないので」の大門未知子も、駆け出しの頃は、患者の命を救えないことも少なからずあったはずだ。
ゴッド・ハンドは、世界中で手術をすることになる。
手技と判断は機械ではできないから。

数か月診察を中止していた主治医が亡くなったことを今日知らされた。
30年以上診て頂いた主治医の死がまだ信じられない。
アメリカでもアラブでもない、天国でまた手術をすることになるのではなかろうか…

外科医の寿命の短さと、人の命の儚さに、改めて感慨をもよおしながら
俺に任せとけ、とばかり、脂の乗り切った頃の先生の、自信に溢れた姿が目の前にちらつくのだった。

笑いの健康法や介護についての一般向け著作がある。
執筆は嫌いな仕事ではないとおっしゃっていた。
でも最後に「本当はゴルフについて書きたいな~」
彼岸では、手術よりゴルフを楽しんでおられるかもしれない。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


※ 脳内リセット!笑って泣いて健康術  吉野槇一 著  平凡社新書(’07.7)

高校の同期会に出席して

地下鉄駅より地上に出ると
「ああ、○○さん。良かった~」という声が聞こえた。
ポツポツ降り始めた雨の新宿。
「地図がわかり難いのよねえ」と言いながら三々五々、向かう先はどうやら同じ会場だ。

M子ちゃんの傘に入れてもらって歩きはじめると間もなく、見上げたビルの看板に目的の店名を見つけた。
いつまでも若い気でいるうちに、いつしか還暦をはるかに越えて、次は古希の集いを、ということになっている。
今の60代は見た目も体力もとても若い。

けれどさすがに高校時代の面影が強烈なだけに、半世紀の歴史を刻んだ相貌はにわかには見分けられない。
社交辞令が舌をすべってゆく間、じっとその目を見つめるうちに、みるみる発展途上の幼い高校生の顔が浮かび上がり
突如として、あ~!! という歓声が上がる。
まだ海のものとも山のものともつかないつるりとした童顔は、やがて喜怒哀楽の皺をたたみ、彫りが深くなったり、ふくよかになったり…
つくづくと、自分の顔は見えないからな~、と思う。

今回の参加者は110名。
幹事が用意してくれたプリントに、物故者の名がふたつ記されてあった。
もっと語り合っておけばよかった、(学生時代は)自分のことで精いっぱいで…
と誰かが言う。
同感しつつ、でも高校生はそれでよいのだ、とも思う。
戦友が特別なものであるのと同様に、やわらかな脳みそを持った者どうし、机を並べ、互いに影響し合ったことは確かだ。

元気そうね、変わらないね…
その一言が交わせただけでよかった、と思える仲間もあった。

二次会でビールを飲みながら、次は2年の時のクラス会をしようということになった。
人恋しい年頃なのである。

幹事さんたち、本当にお疲れさまでした。ありがとう!


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