ミステリーの女王アガサ・クリスティーの誕生日に

02441603_1.jpg


9月15日、今日はミステリーの女王アガサ・クリスティが生まれた日である。
ホームの朝会で、歴史的事件や、その日が誕生日の、古今東西の有名人の名が挙げられる。
スタッフや入居者の世代格差を感じるひとときだ。
10年の歳の違いは大きい。
現代史、映画、スターの名など、随分と知識の隔たりがある。
10年ひと昔、とはよく言ったものだ。

さて、我らがアガサに奉げるオマージュとして、リーガル・サスペンス「杉の柩」について感想を記しておこう。
本作はクリスティ唯一の法廷ものだ。

現実の法廷そのものが人間ドラマに満ちている。
傍聴席で被告と家族が手を取り合って涙ぐむ姿も時に見受けられる。
被告席に立っているのは、とても犯罪者に見えない、真面目そうな一人の男。
そう、傍聴する私たちもたまたまそこに立たずに済んでいるだけなのかもしれない…

「杉の柩」の被疑者は、冷静沈着、高潔な自立した女性エリノア・カーライル。
うちに激しい情熱と繊細な感受性を秘めていることは、婚約者への愛情の深さから思いはかられる。
状況証拠はすべてエリノアが有罪であることを告げているようだ。
エリノアの魅力に惹かれた読者は、彼女の無罪が証明されてゆく物語の展開を期待する。

読書の秋である。
そしてK市は「読書のまち」である。
このホームの入居者にもスタッフにも読書家がいて、本の話となると話題は尽きない。
ホーム長がダイニングの一隅に設けたライブラリーにはすでに様々な本が並んでいる。

1940年に発表された「杉の柩」は、名探偵ポアロの人間性への洞察力が光る名品である。
推理小説にトリックの新奇性を重視するマニアックな傾向がある一方、
謎解きの面白さは、いつも人間という不可思議な存在に対する好奇心を除いてはあり得ない。
本作にはすでに、安楽死や家族制度の問題点に言及する場面がある。

そして、心に思うことと、実際に手を下すことの間に横たわる一線とは…
エリノアの潔癖さと高潔な倫理観は、読者を恥じ入らせることだろう。

最後の蝉たちが声を限りに鳴きしきる。
舗道に力尽きた蝉のなきがら、赤いヤマボウシの実、早々に紅葉して散った落葉、…

秋が深まるにつれ、文字面を追いながら、孤独な思索の愉しみも深まってゆく…
ミステリーこそ最高の愉楽ではないだろうか。
秋の夜長、法廷ものにはまった私は、カーター・ディクスンの「ユダの窓」を手にしたところだ。
上映会には「コリーニ事件」をリクエストする。


※ 杉の柩  アガサ・クリスティー 著  早川書房(’04.5)

フェルディナント・フォン・シーラッハ著「犯罪」

26687040_1.jpg


まさに短篇のお手本のようだ。
起承転結。
さらに最後の一行にこもる余韻…

その客観的で、簡潔、明晰な表現の謎は、さりげなく作品の中に挟まれた次の叙述に伺われる。

まちがった物言い、感情の吐露、まわりくどい言い回しなどはマイナスに働く。大げさな最終弁論は前世紀のものなのだ。ドイツ人はもはや情念(パトス)を好まない。これまでうんざりするほど大量に生みだされてきたからだ。
                         「エチオピアの男」より

これは、法廷の弁論についての意見だが、著者の作品における著述態度に通ずる。
ハードボイルドな文章は、語り過ぎることを嫌う。
行間にもの言わせる手法は、法律に則って犯罪を裁く法廷という場で起こり得る不条理をあぶり出す。
人間を裁くのではなく、罪を裁くのだということを…

よく知られるように、著者のシーラッハは刑事事件弁護士である。
「コリーニ事件」を担当して、ドイツ司法のスキャンダルに迫った。
フィクションが政治を動かすことになった事例として特筆される。

日常的にコンプライアンスという言葉をよく聞くようになった。
法令を遵守していれば何をやってもいいというわけではない。
正義は法にあるのではなく、人間の価値を問い続け、法をツールとして使いこなす人間のなかにある、ということを改めて考えさせる。
そして、それは永久に明確な答えを得ることができず、ただひたすら「問う」文学の役割となった。


※ 犯罪  フェルディナント・フォン・シーラッハ 著  
                 創元推理文庫(’15.4)

近況報告

P9111339.jpg


9月某日 
Y氏に包丁研ぎをお願いする。
目下、奥さんが入院しておられるので、遠慮していたのだが、技術屋のY氏は、ご自分から気さくに声をかけて下さった。
ステンレスのありふれた包丁なので、気後れする。
おずおずと差し出すと
「ああ、いい包丁ですね」と、目を輝かされた。

男の器用さは女の器用さとはまた違う、と母はいつも言う。
根っからの手仕事好きとお見受けした。
「今度は、ハサミも持ってきてください」
乱暴に扱っていたので、支点のねじはゆるみ、刃のかみ合わせが悪くなっていた。
「ティシューが切れなくなったらもうダメですよ」
お預かりします、と持ち帰られたハサミは、刃の歪みが直され、ネジが締められ、油を塗って新品のようになって返ってきた。

9月金曜日
月一度、レイトショーとして、金曜日の夜7時から、映画が上映される。 
雑用が目に入らないところで、ゆっくり集中して観られるのがありがたい。
その夜は2006年の映画「プラダを着た悪魔」
ファッションと皮肉な台詞の応酬がご機嫌なコメディだ。
人気のファッション雑誌の編集長を演じるメリル・ストリープの貫禄。
そしてファッションとは無縁だがジャーナリストとしての成功を夢見るアン・ハサウェイのチャーミングなこと。
流行の目まぐるしい移り変わりと、ニューヨーク時間の早さ…
テンポのよい編集が心地よい。

8月のレイトショーは「リトル・ダンサー」というイギリス映画だった。
軽快な音楽と少年のダンスが楽しめたけれど、階級社会と同性愛が通奏低音となって、重いテーマを投げかけてくる。

ホームに紹介してくれる人がいて、最近整体に通い始めた。
その先生がまた半端じゃないシネフィルで、次回DVDを貸してくれるとのこと。
多分、1万本以上観ているだろう。
時間がないので昨今は、毎晩30分ずつ続きドラマのように観ているとか。

9月に入り、まだ蒸し暑い日が続いているが、朝夕はさすがにほっとさせる涼気に秋を感じる。
富士山が見える日もある。

こちらでの生活が次第に身についてくると、逆に慣れ親しんだ地で生活することの価値が明瞭になってきた。
今度はそのことについて書こうと思う。



P9111340.jpg
9月11日 19時からのレイトショー「プラダを着た悪魔」が上映される。


P9121345.jpg
9月11日のアレンジ 菊、エリンジウム、キキョウ、きいちご、ヒペリカム、ドラセナ、ユーカリ、リンドウ


P9121346.jpg
シンピジウム、エリンジウム、スプレーマム、きいちご、ドラセナ

自己免疫疾患の謎

29963130_1.jpg


自己免疫が原因となる疾患は、増えつつあるようだ。
「自己免疫疾患の謎」というノルウェー語から翻訳された本書を読んで、これは現代病なのだろうか、と様々に考えさせられた。

一例を挙げれば、本書で言及されているように、体内の細菌フローラが免疫システムに影響を及ぼしているとすると、先進諸国では細菌フローラの多様性が乏しく、免疫システムのバランスが崩れ、自己免疫疾患の増加につながっているのではないか、と推測される。
しかし、相関関係と因果関係をとり違えてはならない。

著者の母親は、インド出身の医師で、娘を出産後に関節リウマチを発症し、51歳で亡くなっている。
その苦しみをつぶさに見てきた著者は、関節リウマチを研究対象とし、創薬にとりくむ。
駆け出しの女性医師が、病因を追求しながら、患者救済の道を探る物語だ。

身体にとって外敵である異物を攻撃する免疫システムが、何故自己を抗原とみなし攻撃するようになるのか。
そこには長い進化の歴史がからんでいるように思われる。

アニータは関節リウマチが女性に多いことに着目し、性ホルモンが関係しているのではないか、と推測する。
この場合、サイトカインと総称される免疫調整因子が決め手になる。
関節リウマチには3つのサイトカインが関与し、その作用機序から創薬された三種の生物学的製剤が、2016年には世界で最も売れた医薬品の上位5番に入っている。

新薬の開発には多額の研究費を必要とする。
もし成功すれば大きなリターンが見込める巨大な市場を控えている。
新型コロナウイルスの災禍にさらされている今日、製薬会社はこぞってワクチン開発に取り組んでいるが、重篤な副作用がみられるなど、前途多難である。

ウイルスの脅威と免疫システムは、人類の生存に哲学的な問いを投げかける。
免疫学は進歩著しい分野で、新たな知見が先行する理論を覆してゆく。
アンチエイジングが注目されているが、認知症の特効薬がないように、老化は人類にとって宿命だ。
私たちは母親の胎内に宿った時から、様々な試練さらされながら、自らの免疫系を鍛えてゆく。
老化の果ての免疫系の混乱と弱体化によって、個体に死が訪れる。
癌あるいは肺炎…
著者はそれを次のように表現している。
「システム全体がしだいに自己免疫になっていく(免疫システムが体内の臓器を抗原と考えて攻撃してしまうという意味)」

加齢とともに、身体は弱い炎症状態になるという。
それが余命を決定する。
アンチエイジングとはそれを防ぐ手立てのことであるが、果たして運命に逆らうことはできるのだろうか。



※ 自己免疫疾患の謎  アニータ・コース
            ヨルゲン・イェルスター 著  青土社(’19.12)

石井妙子著「日本の血脈」を読んで

25649310_1.jpg


「女帝小池百合子」が昨今話題を呼んだ著者の石井妙子。
銀座のバーのマダムの半生を描いた「おそめ」も、接待の極意について考えさせる、興味深い好著だった。
他に「原節子の真実」などの著書がある。

絵画も、風景より人物の描写の方がはるかに難しい。
人を描く面白さは、調べ尽してなお謎が残るその余韻にあるのかもしれない。
最初から傑出した個人がいるわけではない。
父母がいて祖父母があり、曽祖父、曾祖母と、何代にもわたって連綿と引き継がれた血脈に対して、私たちは漠然と、畏怖の念を抱いているような気がする。
有名無名を問わず、家の歴史は面白い。
個人主義が当たり前になり、ヒトゲノムが解明されると、すべて科学的に説明がつくような錯覚に陥りがちな今日でさえ…

本書は日本の、知らぬ人とてない有名人10人をとりあげ、そのファミリー・ヒストリーを紹介したものだ。
ミーハー的興味に引きずられて読んだ本にしては、重い手応えがあった。

話題の人、時代を象徴する人物にターゲットを絞って、その数世代前の先祖に遡り、一族の系譜に流れる「意志」のような「家訓」とでも呼ぶべき、或いは「業」ともいえる情念をえぐり出す。
ノンフィクション作家・佐野眞一に「誰も書けなかった石原慎太郎」という著作がある。
取材に協力的だった石原慎太郎と、途中から決別してしまうエピソードは、同時代を生きる人物を描く困難さを想像させた。
評論の分野でも、平野謙が完膚なきまでに暴き立てた「島崎藤村」
川端康成など、作家もあそこまで書かれてはたまらない、と慨嘆していた。
ましてや現役の人物、権力者、皇室などを描く時、ノンフィクション作家にも多少の忖度が脳裏を過らないはずがない。

ジャーナリズムに果敢な調査報道を求めるのと同じように
ノンフィクションにも徹底した調査と、勇気ある記述を望む。
描かれる人は、それだけのパワーを秘めた存在なのだから、有名税と思って諦めて欲しい。
きれいごとも俗なる事象も、そっくりまるごと知りたいと思う。

著者があとがきで述べているように、家系や出自は非常にデリケートな問題を含んでいる。
それを敢えて書くからには、それ相応の理由がなければならないだろう。
ある系譜の処世が、おのずから日本の近代化をあぶり出すことになった。


※ 日本の血脈  石井妙子 著  文春文庫(’13.6)

老人ホームの選び方

P9031324.jpg


コロナ禍の終息が読めずに、2025年問題を5年後に控えた今日、老後の生活がますます見通し難くなってきた。
前期高齢者に突入した時、健康に不安を覚えて、家族をはじめ他人に迷惑をかけないことを第一に老後について思案した。

結局早めの老人ホーム入居を決意、移転してからすでに1年4カ月が経とうとしている。
老人ホームと言えば、だれでも終の棲家と考えるだろう。
とはいえ、有料老人ホームには、「介護付き」と「住宅型」があり、後者で看取りまでするのは1/4に満たないという。

食事が美味しいこと、都市の文化的インフラを利用できること、病院が充実していること、駅に近いことを、必須の条件として当ホームを選んだ。
体験入居には対応していなかったが、90日のクーリング・オフ期間があるということで、入居を決めたのだった。
90日もあれば、ホームの実態や暮らしのイメージがつかめるだろう、と考えたのだ。
ところがその3カ月は考える以上に早く過ぎ去ってしまった。
一年経って、ようやく見えてくるものがある。

クーリング・オフ期間があっという間に過ぎ去ってしまったのは
三度三度提供される食事の内容に満足したばかりではない。
南側に180度の眺望、高台にあり、足下には住宅と幹線道路沿いに建つ大型スーパーが混在する街の風景。
街の息づかい、気配が遠くから聞こえてくる。
視界の半ば以上を占める空は、季節の移り変わりを教え、天候の変化を時々刻々と伝えてくる。
左手には国有地の竹林が緑のカーテンとなって、町の喧騒を遮り、風が葉擦れの音を届けてくれる。
春から夏にかけては、何とよく鶯の鳴くところだろう、と思った。

入居者のなかには、ファサードの植栽の美しさや輸入家具によるインテリアなどが決め手になったという人も多い。
しかし、住宅型とはいえ、自宅を処分して入居するケースもあるのだから、介護やサービスの対価はどうなっているのか、果ては看取りまで行われるのか、…などが要諦だろう。
人材不足のこの業界、優秀なスタッフをどれだけリクルートできるかがこれからの課題だ。

住宅型に入るのは、元気な人が多いので、見た目で判断してしまう場合もあるようだ。
今は元気でも、フル介護を必要とする時は確実にやって来る。

これからは、差支えない範囲でホームの日常を伝えていければと思います。


※ 冒頭の写真は、9月3日の昼食
  しらす丼、冬瓜の翡翠煮、ほうれん草の胡麻和え


P9011322.jpg
9月1日の昼食 太刀魚の塩焼き、赤飯、高野豆腐の卵とじ、オクラのおかか和え
月一度はお赤飯が出ます

P9051326.jpg
9/2に届けられたアレンジ カーネーション、ピンポンマム(菊)、スターチス 


P9051329.jpg
グラジオラス、ヒマワリ、モンステラ

「糖質過剰」症候群 を読んで

P8291318.jpg


様々な健康法や食事療法が喧伝されたと思ったら、たちまち新しい理論に取って代わられる。
特にダイエットの分野では、その変化が激しいようだ。
コレステロール値を気にする人は多いが、食事に含まれるコレステロールと血中コレステロールは無関係であることがわかり、今では鶏卵は二日に一個までと厳密に制限することは少なくなったのではないか。
また悪玉コレステロールと呼ばれるLDLも、炎症を伴わなければ、直接心筋梗塞につながることはないという。
むしろ、不足する方が危険というのが最近の考え方である。

このようにコレステロールひとつとってみても、新たな知見が提出されると、厚労省の指導までが変わってくる。
専門家の意見であっても、安易に惑わせられないようにしたいものだ。
(今度のコロナで、あらためて肝に銘じたことではないだろうか)
とはいっても、加工食品が容易く手に入り、特に糖質を多く人類が摂取するようになった歴史がまだまだ浅いことを考えると、著者の主張に少なからず同調したい。
理論的根拠となる論文をひとつひとつ明記する姿勢に共感した。

本書は必ずしも、糖質過剰がほとんどすべての病気の根源だと主張しているわけではない。
肝は後半部に要約されており
病気の治癒を目指す医療が、研究段階から資本の論理に汚染されており、医療ビジネス化している現状を告発しているのだ。
糖尿病の専門医は何故、糖質制限食を否定するのだろうか…

薬に関しても、医薬分業となってから、患者本位の処方がされるようになったかというと、むしろ逆行しているのではないか、と思えるケースがあまりに多い。
医師は薬剤師のチェックに頼り、安易に薬を増やしていないか。
薬の相互作用はほとんど検証されていないという。
「お薬手帳」がどれほど活用されているのか、疑問である。

医療が資本主義に馴染まない分野であることは今さら言いたくはないが
患者の治癒と健康増進のために薬や検査を減らした方がよい場合には、そのような対応にも点数をつけるべきだろう。

医療を患者自身の手に取り戻すにはどうしたらよいのか…
私も、以前より糖質を減らした食事を意識するようになった。


※ 冒頭の写真は8月28日にアレンジされたもの。
  時節柄、花材も少なく、花の持ちもわるいということです。
  シンビジウム、ケイトウ、アルストロメリア、デンファレ、タニワタリ

P8291320.jpg
フウセントウワタ、クルメケイトウ、カーネーション、ハイビスカスの実


P8291321.jpg
ヒマワリ、アルストロメリア、アンスリウム、パイナップル、


29661002_1.jpg
「糖質過剰」症候群 あらゆる病に共通する原因
          清水泰行 著  光文社新書(’19.5)

母娘の物語 「高台にある家」を読んで

25328048_1.jpg


内省的な振幅とそのひだを自意識の限りを尽くして克明に描いた物語ではない。
本書は私小説というより「自分史」の姿勢で書かれている。
著者は、「日本語の亡びる時」「母の遺産」を書いた水村美苗の母である。

本書を手にしたのは、「母の遺産」に描かれた水村美苗の母がとても個性的で、実際どんな人だったのだろう、と強く興味をそそられたからだ。
するとその母なる人は、70歳からカルチャースクールの文章教室に通い78歳で本書を上梓しているのだった。
早速読んでみたところ、その出来ばえには、けれんみのない、文章の素人らしい正直さが伺え、惹きつけられた。
職業作家の文飾や省略とは無縁の、時に文学少女だったらしい通俗的表現があるにせよ、ある種のリアリズムに貫かれている。

「母の遺産」では、介護対象としての母を、客観的に突き放して描いていた。
美しいもの、富貴と教養に裏打ちされた華やかな生活を求めた、作家・水村美苗の母とは…
当時の先進文化だった欧米文化に憧れ、ミーハーともみられるほど熱心に上層の生活スタイルを追求した女性だ。
母その人の回顧録「高台にある家」によれば、一体どのような女性だったのだろうか…

感心させられるのは、親戚縁者との交流を細部まで描き、価値判断を下しながらも、「わがまま」に生きることを肯定し、決して悪びれていないことだ。
そして何よりもその記憶力の確かさに驚かされる。
少女の頃より大人の世界を年齢なりの洞察力で観察していたのだろう。

愛情も嫉妬も嫌悪も正直に描かれる。
母に対する疎ましさもそうである。
何と言っても興味深いのは、大正から戦後にかけての、格差に応じた生活の諸相が見たまま、感じたままストレートに描かれていることだ。

読書好きの少女が、本からどんな影響を受け、周囲の大人たちの人間模様をどのように捉え、処世をしたか…
上野千鶴子は、自分史を払拭決算という言葉をもって批判していたが、本書には自分を正当化し、飾ろうとするエゴがない。
構成を考え、モチーフの取捨選択を経て洗練されるプロの文章ではない。
だからこそ、時代の雰囲気、人の心が描かれたのだと思う。

最終章に至り、疎ましいばかりだった母が、保護を必要とする幼児のように見えるところは、一掬の涙を誘う。
本書は母娘の物語へと収斂した。

本好きの少女の半生…
現実と書物のなかの虚構とは、想像される以上にのっぴきならない切り結び方をしているのだと思う。
それは、作家・水村美苗のテーマでもあろう。



※ 高台にある家  水村節子 著  中公文庫(’12.9)

食べる投資 ハーバードが教える世界最高の食事術

29980979_1.jpg


今日の常識は明日の非常識
特に医療や栄養学の分野で、それまで信じていた健康法が新たな知見によってたちまち覆ってしまうのは、しばしば経験するところだ。
だから、健康法の類は、眉に唾して、冷やかし半分で読むことにする。

食べることを「投資」と捉え、著者の経歴からハーバードを副題に用いるのは、編集者のセンスだろう。
ハードワークに陥りがちなビジネスパーソンに、もっと働けとばかりのタイトルには抵抗を覚えるが、いくつか実際的なヒントをもらった。

粗食がよい、と言われたり、肉より魚、もっと昔は年取ったら肉食より菜食だと考えられていた。
老人ホームには、アンチエイジングに一方ならず熱心な人がいる。
「フレイル(虚弱)」という言葉をここへ来てはじめて知った筆者は、相当意識が低い、と言えよう。

川島四郎の「行軍食」に興味を覚え、専門学校時代に栄養学の講義を受けている母に、その内容を聞いたことがある。
日本軍の強さは蛮食にあり、というのがその主張だった。
彼の言うところは基本的に正しく、戦後も著作を発表している。
テレビを観ても、グルメ番組花盛り。
外国人からみると、日本人は食べることばっかり、と少々批判的だ。
兵隊を、戦闘における戦死ではなく、ほとんど餓死させた先の大戦を考えれば、平和だなあ、と思う。
(食べることに注視させるのは、有権者が政治に目を向けないようにするための、工作かもしれない)

とはいいながら、食べることが人生の最重要課題であることにかわりはない。
このホームの最高齢者Y氏は、奥様の介護をしながら、今もホームから出勤される現役だ。
未だ働いていることについて、食えないから、…と謙遜するY氏は特攻隊の生き残りである。

昨今の研究から炎症と寿命の関係が注目されるようになった。
リノール酸を多く含むサラダ油や肉食は、代謝されると炎症を起こすアラキドン酸に変わる。
トランス脂肪酸はHDLを減らしLDLを増やす。
(LDLが必ずしも”悪者”とばかりは言えないようだが)
加工品や高温調理された食品には、炎症の原因となり老化を促進する物質が含まれていることがある。
以上は今や常識なのだ。
チョコレートやコーヒーに抗炎症作用があることは初耳だった。


※ 食べる投資 ハーバードが教える世界最高の食事術  満尾正 著
                    アチーブメント出版(’19.12)


P8261312.jpg
8月26日の夕食は、うなぎの蒲焼、夏野菜の揚げ浸し、ごぼうの胡麻酢和え
糖質過剰かな、と思いながらも完食!

フェルディナント・フォン・シーラッハ著「罪悪」を読んで

27658399_1.jpg


著者は刑事事件弁護士であり、その辣腕ぶりを評価される実績の持ち主だ。
「罪悪」に描かれた法廷の数々は、その経験をもとに書かれていることは疑い得ない。
ただ弁護士には守秘義務というものがあるので、作品は事実通りではないという。

ディテールの写実と、人間性への深い洞察が、法廷における「審判」が神の領域への「侵犯」であることを思い出させてくれる。
かりそめに、そして同時に公平を求め、厳正に設立された法廷。
そこにドラマがないはずはない。
ミステリーに「法廷もの」と呼ばれるジャンルが成立するわけである。

ならば、裁くのは法廷ではなく、作家なのだろうか。
そこで読者が覚える不安に応えて、作品の方は人間性とは何か…、と未来永劫に問いかけてくるだろう。
短篇の余韻は、長篇のように重く、詩のように難解だ。

ヨーロッパ最大の刑事裁判所は……
建物のなかには12の法廷と17の階段ホールがある。1500人の人が仕事に従事し、そのうち270人が裁判官、350人が検察官だ。毎日、およそ300の公判がひらかれ、80の国に及ぶ1300人の未決囚が収監されている。ここには毎日、1000人の訪問者、証人、訴訟関係人が訪れる。年間6万件の刑事訴訟手続きが行われる。これが統計データだ。
                        「罪悪」『司法当局』より

それらの判決のなかには、冤罪もあるだろうし、手続きが忘れられ、弁償金が請求されないケースも出てくる。
本当の犯人は見逃され、厳正な法廷に対して、強靭な惰性と忘却がやがて日常をおおってゆくことだろう。
ミステリーはいつも平和な日常と凡庸な人格のなかに巧妙に隠蔽されているのだ。


※ 罪悪 フェルディナント・フォン・シーラッハ著 創元推理文庫(’16.2)