不食という生き方

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人が食に費やすエネルギーの話をしていた時、本書の著者である秋山佳胤さんの名が出た。
何も食べずに生きていける、と主張し、実際ご本人も実践されているとか。
話半分で、ふんふんと、ともすれば苦笑いしそうになるのを抑えながら、聞いていたのだけれど、「とんでも本」と決めつけずに、どのように不食の理論を展開するのか、一度読んでみようと思った。

どんなに荒唐無稽な話でも、一片の真実が含まれているに違いない。
そう考える私は、お人よしか、柔軟性とか自在なパラダイム転換に対してコンプレックスがあるのかもしれない…
とはいえ、やはり本書の主張するところ、プラーナ(気)を食べるだけで生きていける、とする理論には全く賛同しかねるのだった。
100%譲って、もし著者の理論が正解だったとしたら、現在私たちが目にする世界は決して存在しなかっただろう。
地球上に飢餓は起こり得ない。
食物連鎖のサイクルも、人が弱肉強食と呼ぶ掟も、食うために働くモチベーションも生まれようがない。
野生もなければ文化もない。

となれば本書はやはり「とんでも本」の部類に入るだろう。
ただ、著者の主張には飽食の時代、競争社会への批評があり、過激な分私たちの現実社会を映す鏡になっていると思われた。
過剰な食糧生産の一方で、飢餓と貧困、大量の食材の廃棄が起きている。

他者との繋がり、環境との共生が抜き差しならないものとして自覚され、愛や共感が生まれる時、人は自らの欲望を容易に制御できるだろう。
そんな正論を今さらのように述べてみるのも面映ゆい。
テレビを席巻するグルメ番組、美食に血道をあげる人々は、かつての古代ローマの貴族のようだ。

因みに著者は、弁護士であり、医学博士である。


※ 不食という生き方  秋山佳胤 著  幻冬舎(’16.5)

ボジョレー・ヌーボーの会 2019 ワイン・パイロットにて

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2,3欠員はあっても、今年も無事集えたことにまずは乾杯!
ワインの新酒を味わうボジョレー・ヌーヴォーの会でのことです。
オーナーである高校の同級生H氏は、某航空会社のパイロットだったので、お店の名前はワイン・パイロット。
きびきびと立居振舞も美しい娘さんとふたりで切り盛りしています。

高円寺駅の改札前で友人と待ち合わせて、居酒屋の建ち並ぶガード下の側を通り抜けて、7、8分。
一見モダンな仕舞屋風ですが、葡萄をデザインした看板が、住宅街の中でひっそりと、この場所が美味しいワインを提供してくれるお店であることを教えてくれます。

夕暮れの早い季節。
2年前はコットンでも少し厚手のコートを着ていたのを覚えています。
それが今年は薄いジャケットで十分なほどの暖かさ。
すでに座を占めていたグループの中に、数名の知った顔が…

友人とふたり、メンバーが来るのを待ちながら、最近観た映画の話など早速おしゃべりに花が咲きます。
4人揃ったところで、施設に入所している母親を訪ねた後に来るという一人を残して、まずイタリアの新酒が注がれました。
ピカピカのワイングラスに、薄いレモン色の液体が少し発泡しています。
新酒らしい爽やかな味わい。
オードブルは、生ハムを巻いた手づくりのグリシーニ、パテ、薄切りのリンゴにゴルゴンゾーラ、…etc.
他になにもいらない、と思わせるワインとの絶妙なハーモニー。
満ち足りた時間でした。
少し塩辛いくらいがワインに合うと思っていたところ、塩分控えめ、それで十分つまみになっています。
ヘルシーな美味しさは、きっと年齢も考慮に入れての工夫でしょう。

今年もありがとう!
気の置けない仲間と新酒を頂く喜びは格別でした。




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キッシュ、フランスパンにフォアグラやイベリコ豚のパテがのっています
鮭にきのこのオイル漬け

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ビールに漬けたスティック野菜のお漬物 チコリに乗っているのはラタトゥイユ


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チーズ入りラビオリ


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ティラミス  チョコレートと濃いコーヒーは相性もの   ’19.11.24

読書日記

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岡本かの子は歌人、小説家として知られているが、世に出たのは最初、仏教研究家としてだった。
一平の浮気に苦しみ、夫を愛せなくなっていたかの子に対し、悔いる気持ちからか一平はかの子の文学的成就を支援しようと決心したようだ。
その総仕上げとして、一家はヨーロッパへと外遊する。
約3年の滞在の後、息子太郎をパリに残して、帰国したのは昭和7年(1932)。
折からの仏教ブームの波に乗り、かの子は引っ張りだこで多忙を極めたようだ。
本書が出版されたのは、昭和9年。
人生相談の体裁をとって、仏教の考え方に則り、人々を世俗的な苦悩から解放することを意図している。
自ら、苦しみ抜いて、救いを求め、求道した人らしく、語られる言葉は平易であり、少なくとも本書を手に取る読者なら、たちまち腑に落ちるはずだ。
経験者の言葉ゆえの説得力がある。
仏教は行動哲学である。
仏教が教える抽象的な言葉が現実の生活に即結びつき、精神の安定をもたらしてくれるだろう。
かの子が裁く神であるキリスト教に馴染めず、仏教に魅かれたのは当然の成り行きだった。
本書は極上のハウツー本である。

※ 仏教人生読本  岡本かの子 著  中公文庫(’01.7)


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岡本太郎の文才は定評のあるところだが、その渋滞のない、読みやすい文体は、口述筆記によるものと言われる。
岡本敏子さんというよき編集者、養女の存在が大きいと思う。
それにしても芸術論を述べる時の、滞りなさといい、用語の正確さといい、気迫といい、信念といい、一貫した姿勢が心地よい。
テレビでそのタレント性が受けて、逆に本来の芸術性が認識されていないような気もする。
何といっても、処世のために芸術を捻じ曲げる「卑しさ」を忌避し、創造者としてあくまで純粋性を求めた若さに脱帽するしかない。

※原色の呪文 現代の芸術精神
         岡本太郎 著  講談社文芸文庫(’16.2)

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描写の生々しさは、他の追随を許さぬものがある。
同時に、言語化されずに見逃されがちな風景を、思いもかけない比喩によって、非常に緻密に描く。
彼女の文学のテーマは一貫して「いのち」だった。
それも強く、若く、華やかな命である。
生命の量の違いということで、小説中の男女の関係は常に非対称であり、女の方が優位に立っている。
岡本かの子は意志的な肉食系女子の典型といえる。

※ 岡本かの子 ちくま日本文学 筑摩書房(’09.7)

ドキュメンタリー映画「人生をしまう時間(とき)」

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ドキュメンタリー映画「人生をしまう時間(とき)」を川崎市アートセンターに観に行く。
本作は、NHKスペシャル「在宅死“死に際の医療”200日の記録」を再編集、映画化したものだ。
番組は大きな反響を呼び、何度か放映されているそうだ。
未見だったため、劇場に足を運んだ。

舞台となる病院が、この間まで住んでいた家から北へ、県境を越えてほどない堀ノ内病院だったこと、在宅診療の中心を担う小堀鷗一郎医師が森鷗外の孫であることなどで、終末期医療という重大テーマにさらなる興味が加わった。

私の父は30年以上前に病院で死に、元気だといわれる母は92歳になった。
数年前に、母の妹である叔母が在宅で死を迎えている。
終末期の医療は、社会問題であるだけでなく、私自身にとっても身に差し迫った最優先課題なのだ。

よく死ぬためには、よく生きなければならない。
映画を観ながら改めてそう思った。
2時間弱のドキュメンタリー作品に仕上げるまで、没になった何倍もの取材フィルムがあるはずだ。
小堀医師も堀越医師も、ともに外科医だったことが意外であるとともに納得させる点だ。
辣腕の外科医として活躍した医師が、最期を迎える人間まるごとを引き受けよう、と決意するに至る経緯は、人間として共感できる。
ドキュメンタリーとはいえシナリオがあり、きれいごとの人情ドラマになることを警戒する気持ちがどこかにあるものだ。
しかし、本作に登場する医師だけでなく、家族、看護師、ケアマネージャーなどが自然にふるまえていることに、とても安心させられた。
それだけ死が厳粛な現実であるということ、死はすべての虚飾を無意味化してしまうということだろう。

このドキュメンタリー映画を観て、いい人たちに出会えたなあ、という気がした。
看取ることを特別視しないで、自然に、時にはユーモアを持って向き合いたいと思う。

「限界都市 あなたの街が蝕まれる」を読んで

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限界集落という言葉を聞くようになってから久しいが、次は限界都市である。
都市の人口構成は地方より遅れて老齢化するので、少子化人口減の時代において、都市も早晩、高齢化率が高くなり、住民が減少するのは避けられない。

それでも次々と再開発が行われ、タワーマンションが建てられるのは何故だろうか。
空き家問題に苦しむ自治体が、タワマンの建設に補助金を出す理由は何だろうか。
本書から、住民を増やして、税収を上げたい自治体の思惑と民間のディベロッパーの目先の利益優先が、百年の計であるべき環境問題を蝕む現状が明らかになる。
地方の首長ばかりか国の総理大臣でさえ、保身と一代限りの成果を求める国では、大局的な見地から大鉈を振るう様な、大胆な施策を実行できない。
国民の一人一人も大方は、まず自らの欲望に忠実に従うだろう。
都市への人口流入と一部地域での荒廃は、コンパクト・シティの美名の一方で、優柔不断な行政が不徹底な開発を許すことによって生じているものだ。

それに気づいていながらが、開発は止まらない。
将来の「廃墟」の現実は、不都合な未来が来るまで分からない。
この東急沿線では、武蔵小杉のタワマン乱立が問題視されてきたが、台風到来によって、いよいよ悪夢が現実となった。
停電によってエレベーターが停止した時、住民はどのように対処できたのだろうか。
そもそも歴史の浅いタワーマンションは、大規模修繕やメンテナンスのノウハウの蓄積がない。

一方、政治家には「建設族」や「道路族」はいるのに「都市族」はいない、と指摘されている。
明確な受益者のいるところに政治は動く。
何代も続けてようやく成果の上がる林業などが振るわないのと同じく、長いスパンで都市行政を考えるインセンティブが働かない。

若い世代にとって、もはや消費が快楽でないのは、物欲が無いのは、不快な未来を生きることになるかもしれないという予測ゆえだ。
とすれば、欲望全開の開発事業は一体、だれによって担われているのか。
誰ということなく、無責任な行政と市場の神の手が結託した結果なのだろう。

本書ではサービス付き高齢者住宅が乱立する現状についても紙数を割いている。
華々しい土木の成果から、地味な老朽インフラの修復へとシフトすべき時、技術はその方面で活かすことにならざるを得ないだろう。



※ 限界都市 あなたの街が蝕まれる
            日本経済新聞社 編(’19.2)

ホームでの近況

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ホームに入居したばかりで、寂しそうに見える方がある。
孤独だからではなく、まだこちらでの生活が軌道に乗らず、充実感がないのだろう。
皆でわいわい賑やかにしているから寂しくない、というのは嘘である。
寂しい人は、一人でいようが、二人でいようが、大勢の中にいようが寂しい。
気休めの娯楽で無為をごまかしても、それはほんのいっときに過ぎない。
偉そうな言い方になるが、心の充足は、生きることにどれだけ切実に取り組んでいるかで決まるものだと思う。
これは日常的に実感することだ。
豊かな時間は、誤解を恐れないで言うならば、徹底的に苦しみ悩んだか、その誠実さの結果だろう。
気がつけば、寂しさとは無縁の時が流れている。

ホームでは土曜の昼下がりに「おとなカフェ」が開かれる
丁寧にたてたコーヒーのお相伴に与りながら、それぞれの趣味やおしゃべり、読書を楽しむ。
ほんの一時間ほどのコーヒーブレイク。
これはY氏がコーヒー豆を差し入れしてくださったのをきっかけとしてはじまったようだ。
コーヒーの香が立ち上ると、ほっとしてたちまち心身の凝りがほぐれてゆく。
物静かなY氏はさりげない心遣いされる方だ。
いつも奥様の手をしっかり握ってダイニングに現れる。
戦争中は特攻隊員でありながら奇しくも命永らえて、原爆投下後の広島に救援に入っておられる。
被爆しながら91歳という高齢にもかかわらずで、現在もホームから出勤されている。

ホームの担当者は、当然のことながら戦争体験者と接する機会が多い。
戦争を体験した人は違う、と以前何度か会った施設責任者がしみじみ語っていた。
ホームにはいろいろな人が入所されている。
家族も来歴も様々だ。
違うことを前提に各人のプライバシーを尊重して、適度な距離感で、淡くお付き合いしていくことが大事だとつくづく思う。

今のところ入居者も少なく、快適なのだが、これからどうなるのだろうか。
心配をはじめればきりがないけれど、ここは他力でいこうと思う。
へたな考え休むに似たり、と嘯く私である。

※ 冒頭の写真は「おとなカフェ」 Y氏が差し入れて、スタッフがたててくれたコーヒーを頂く。ケーキまで用意して下さって、恐縮です。


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10/31 夕食後だれもいないダイニングで読書。いつまで続くか、この贅沢!


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11/1 ひんやりした朝の空気が食欲を刺激する。


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11/16  夕焼けを背景に富士山のシルエットがくっきりと

平成文学とは何だったのか

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この4月まで住んでいた自治体で聴講していた助川幸逸郎先生の最新の著作である。
助川先生の講義は、源氏物語の解釈であり、主催するのが〈21世紀の生き方を「源氏物語」に学ぶ会〉
会名からも分かるように、その講義は、源氏物語の人間関係や感情のあやなどを、今日の読者にもリアルに感じられるように流行語なども使って解説するものだ。時に相当深読みする。
ひいては今日の我々からはかけ離れた王朝人の恋愛譚とはいえ普遍的な真理が浮かび上がってくる。
古典を古色蒼然とした過去の遺物から解放して、今にも通じる読みに変換する助川先生の手際に感心させられる。

今現在
講座の方は宇治十帖に入っている。
宇治十帖は近代文学だというのが助川先生の持論である。
雲上人の雅な恋愛模様には今一つぴんと来ないところもあるが、浮舟の凄まじい苦悩は皮膚感覚的にわかるのだ。
とはいえ、移転後なかなか講座に出席できないのが残念だ。

本書は、古典好き、近代文学好きだが、リアルタイムの小説読みではない私にとって、平成の文学を総括した、読書のための格好のガイドブックになっている。
本が売れないと言われて久しい。
他のメディアとは異なる小説の意義を説き、作家たちの今と未来を占う本書は、時代を映す鏡たる作品にも目配りすべきことを痛感させた。
長大な物語を紡ぐ、筆力に恵まれた小説家も少なくない。
宝の山を探索せずに放置することないように、本書を参照して新しい作家を発掘したい。
対談形式のため、複数の視点に学べ、何より読みやすい。

それにしても本書のタイトルはあまりに無味乾燥で、副題も大げさすぎる。
地味な装丁も売れ行きに影響するだろう。
多くの小説家と作品を取り上げた価値ある本だと思うからこそ
編集者に一考を願いたいものだ。



※ 平成の文学とはなんだったのか 激流と無情を超えて
   重里徹也 助川幸逸郎 著  はるかぜ書房(’19.9)

岡本太郎美術館を訪ねる

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秋晴れの週日、生田緑地の岡本太郎美術館を訪ねた。
川崎市に寄贈された作品を展示した美術館だ。
足の悪い人も、丘陵地にあるからと諦めず、車で入口までアクセスできるので、是非訪れて欲しい。
展示棟を地中に埋めて、季節とともに移ろう自然と融合した美術館だ。
特にカフェからはメタセコイアなどの樹木が眺められ、時間がゆったりと流れてゆく。

今回の常設展は、書家・占い師である高天麗舟の監修により風水思想を取り入れているとか。
岡本太郎に相応しい、天文学的というか宇宙的な感受性にはぴったりの展示プランだと思う。

美術館の正面で、まず高さ30mの「母の塔」が目を射る。
樹木をかたどった、真珠色に輝く塔の上で、子どもたちが太陽に向けてもろ手を挙げている。
岡本太郎に「黒い太陽」という詩がある。

・・・・・
人間という種族が生れて 育ち
植物のように
魚族のように
動物のように
のびて地上にはびこっていった間
いつも身体いっぱいに太陽が輝いていた
陽光によって 人間は生をうけたに違いない
最初の女性は太陽によって懐胎した
太陽こそだから
女性にとっては輝かしい男性であり
逆に 男性にとっては母胎なのである

この「母の塔」は、二子に生まれた母・かの子と息子・太郎を象徴するかのように、二子の岡本かの子文学碑「誇り」に向けて建つ。
塔をぐるりと経めぐるにつれ、子どもたちの様子も変化し、母のメタファーである太陽を抱こうとしているようにも見え、また助けを求めているようにも見える。

芸術は爆発だ と大衆受けするような簡潔明瞭な台詞を流通させた太郎だが、方法論を重んじ、科学的であることを標榜した。

流暢なフランス語で芸術論を語り、ピアノでモーツァルトを弾き、急斜面のゲレンデを直滑降で滑り降りる…etc.
名づけられることを拒否する作品群は未だ発展途上にあるかのようだ。




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TAROパフェ                        ’19.11.12



窓のある風景 Window Scape

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窓のある風景というより、窓から眺められる風景、とするべきかもしれない。
光や風ばかりでなく視線を通行させる窓は、内からも外からも眺められる切り取られた壁。
視線が行き交う空虚である。

窓を通して、まず内から眺める外は、密かに見られる風景であり
それを外から見る時は、内にあるものと住む人を想像させ、半ば視線を拒みながら好奇心をかきたてる装置になっている。

“Window Scape”の3巻本は、建築の重要なディテールである窓に注目して考察する。
巻1は「窓のふるまい学」
世界各地の窓の様式と付帯設備について美しい写真を載せて解説を加える。
巻2は「窓と街並の系譜学」
窓のある建物を外から眺め、町や村の景観の要素として観察する。
巻3は「窓の仕事学」
様々な工房や工場、商店の窓が、いかにその仕事に相応しい造りになっているかを見てゆく。

気候風土を考慮した上での機能と、文化慣習を表現する形態及び装飾が、視線が行き交う場所で均衡する窓のあり方。
休息や癒しのための窓。
人が窓に何を求めるか、は1巻の美しい写真集に明らかである。
窓枠で限られた風景は、想像力を広げ、豊かな詩想の源となる。

風を通し、光をとりいれるという役割を果たす一方、時に詩心を発動させるのが窓である。
窓に魅かれる所以である。

※ Window Scape1  窓のふるまい学 
         東京工業大学塚本由晴研究室(編) フィルムアート社('10.10)



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Window Scape2  窓と街並の系譜学 
         東京工業大学塚本由晴研究室(編) フィルムアート社('14.2)


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Window Scape3  窓の仕事学 
         東京工業大学塚本由晴研究室(編) フィルムアート社('17.2)

青い薔薇を夢見て 続・生田緑地ばら苑にて

PB070872.jpg  プリンセス ドゥ モナコ


「青い」薔薇というのは、育種家にとって未だに見果てぬ夢なのだろうか。
この日、ばら苑でいくつかの「青い」バラを観たが、そのすべてが青というより青紫に近い。
どこか憂いを含んだ、ロマンチックな青である。

ばらには本来、青の色素がなく、品種改良で青いバラをつくることは不可能だという。
そこで遺伝子組み換え技術を使って、パンジーの遺伝子を導入することにより、青いバラが誕生した。

しかし、真青なバラではない。
純一な青いバラは大倉陶苑のティーカップの艶やかな陶磁の表面に咲いている。
ブルー・ローズだ。
何故人は薔薇に美を見るのか。
そもそも人は何をもって美しいと感じるのだろうか。
小林秀雄が言ったように、美しい薔薇があるだけ、となれば何も説明したことにはならない。

薔薇と人の間には深い因縁があるのかもしれない…

フラミンゴと名づけられた薔薇はまだたくさんの蕾をつけていた。
閉園後も咲き続ける薔薇は、一体だれを慰めることになるのだろうか。
冬薔薇(ふゆそうび)という言葉にも魅かれるが
今度は春の華やかなバラを観に来よう。


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プリンセス マーガレット ローズ


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プリンセス ドゥ モナコ


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トワイス インナー ブルームーン


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アルブレヒト デューラー ローゼ


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伊豆の踊子


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ホワイト クリスマス


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ホワイト マスターピース


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桃香


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マリア カラス


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ピーター フランケンフェルト


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ウィンナー ワルツ


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シャノン


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クローネンブルグ

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芳純

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マダム ヴィオレ

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ライラック タイム

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マグレディース イエロー                ’19.11.7