サル化する世界

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外出自粛のせいで読書量が増えるわけではない。
ズームもあれば、「ゼロ・コンタクト」で仕事の一部を進行させることも不可能ではない。
そんな折、コロナ禍ゆえに確定申告の遅れが許されているのをいいことに、すっかり怠けてしまった。
試験勉強をよそについ本に手が伸びて、うっかりはまってしまう。
そんな経験は誰にもあることだろう。
今の私はちょうどそんな具合だ。

著者の内田樹は、同世代であり、その言論がいつも気になる思想家の一人だ。
ブログも読み、著作も手にする。

「内田樹の研究室」は以下
http://blog.tatsuru.com/

今回読んだ「サル化する世界」は、人間や組織、政治や社会がますます劣化している現実を指摘。
民主主義、中国の覇権、死刑、憲法、敗戦、教育、医療、介護、分配などについて広く論じている。
その時、キーワードとなるのが、人口減少、AI、資本主義の危機…
処方箋は、現場主義、性善説、身近な相互扶助、多様性、競争原理批判、…

至極真っ当な意見がなぜ今日の日本で賛同を得られないのだろうか。
著者の「常識的」な「おとなの提言と判断」は、絶望を希望に変える。
共同体の利益を個人のそれに優先させることが結局個人のためになると考える人はまだいるのだ。

一方、林真理子は、ほとんど読むことなく、ミーハー的興味でその言動に時々触れるだけの作家だ。
つい最近「六条御息所 源氏がたり」を読んではいるが。

人の欠点は、自分の中にあるからこそ、よく見える。
林真理子の「毒」は、自らにまわることがないように、著作上に全開しているように見受けられる。
「女の偏差値」とはまた、身もふたもないタイトルではあるが、自虐的なほど自らの愚かさを開陳してみせる作者は、したたかな確信犯だ。
内容は自慢話ともいえるが、自分をピエロに擬すことで、帳尻を合わせているのが、見事と言うべきか。

中に中国人の整形の話があった。
化粧もシェイプアップも、人体に加えられる暴力だとすれば、私たちは日々、自らを傷め苛んでいることになる。
日常このことを意識している人がどれだけいるだろうか。
この自己に向けられる暴力を許す文化をどう考えるか、で生き方も変わってくるはずだ。
一般に化粧は身だしなみであり、シェイプアップは自己の肉体の過剰な意識化ゆえだろう。
私たちは自らに暴力をふるう。
そのことを楽しんでさえいる。
その自虐的なふるまいについて、著者の筆は喜劇的に辛辣である。


※ サル化する世界  内田樹 著  文藝春秋(’20.2)


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女の偏差値  林真理子 著  マガジンハウス(’19.5)

博打場で学ぶ「うらおもて人生録」

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「麻雀放浪記」で名の知られた阿佐田哲也が別のペンネームで書いた著作である。
本書でも触れているように、著者がたくさんのペンネームを使い分けていたことはつとに有名である。

実家に積んどくしてあったのを、徒然なるままに手に取った。
名著という評判だったのに、なぜ今まで読むことなく過ぎてしまったのだろうか…
私にとっても、解毒剤のようによく「効く」エッセイ集だった。
(近年、もっと若いころに読んでおきたかったと思う本が多くなった)

終戦を16歳で迎えた著者は、博打場で人生をスタートした。
運とつき、統計学的ともいえる、その冷静な観察眼とリアリズムが暗に、「願えば叶う」的な無責任な言述が流通しがちな社会を批評しているようだ。

相撲でいえば、9勝6敗が目指すべき星であるという。
完璧主義は実現しがたい高みに向かって、人を鼓舞するが、実は無駄な精神的負担ばかり背負いこむのではないか…
勝敗を決する土俵で、一人の力士が勝ち続けるわけにはいかないのは当然だ。
勝者と敗者五分五分の勝負の世界で、わずかでも勝ちが上回れば幸運というべきだ。
著者の言わんとするところは負けを受け入れ、そこそこで満足することを学べ、ということではないだろうか。

エリート街道を順調に進む人もあるが、それはごくわずかだ。
裏街道や辺境にも生きる道はある。
常に勝ち続けることを要請する社会では、頑張ることがいいことだ、という言説が流布する。

負けることを嫌悪する、或いは恐れる傾向は、現代人の強迫神経にまでなっているのではないか。
ギャンブラーであり、業界紙を転々と渡り歩くような生活を送った著者だからこその、現実的な人生指南には説得力がある。
特に若い人には有効な人生哲学となるだろう。
なんといっても、まず人を好きになること、という基本姿勢が、強面の著者には意外な一面だ。
神は細部に宿る。
本書によって、深遠な真理を垣間見た若者は幸せだ。


※ うらおもて人生録  色川武大 著  新潮文庫(’87.11)

吉本隆明著「夏目漱石を読む」

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今、吉本隆明の著作に親しむ人がどれくらいいるか知らない。
ただ本書の対象となる夏目漱石は、まだまだ多くの人が口の端にのせる。

夏目漱石に普遍性があるのはひとつに、そもそも人間心理に不変の法則があるからだろう。
私も、大学進学が決まった、暇な春休みに漱石を読破する計画を立て、実際主な著作を読んだ覚えがある。
今思えば、精読にはほど遠く、十分に理解するには及ばなかった。

大学に進むと、今度は一般教養課程の心理学の授業で、何千頁にわたる夏目漱石の著作を読まされた。
漱石は、本書にも書かれているように森鴎外にはない心理描写に優れ、人間心理の精緻な動きをとらえている。
心理学のテキストに取り上げられる理由である。

本書は講演を筆記したものなので、非常に読みやすい。
漱石の一貫したテーマは、男女の三角関係である。
指摘されるまでもなく作品ごとにその主題は繰り返し変奏される。
男二人に、ひとりの女。
重点はいつも男二人の関係に収れんし、それが当時の社会の宿命だったと納得されるのだ。
今では起こり得ないような悲劇が、それにともなって起きる。
今日とは比べものにならないほど男同士の連帯が強く、無私の愛情を注ぐ女が漱石にとっての理想の女性像だったようだ。

著作の背後にある歴史と社会を理解しなければ、漱石は読み解けないだろう。
だからこそ、時代を越えて往還する人間心理の闇が剔抉されるように思う。
大秀才、漱石は今でいえばパラノイア的資質の持ち主であり、被害妄想、恋愛妄想、追跡妄想が見受けられる。
「夢十夜」から戦後の漱石の読みなおしがはじまったというのは、そこだろう。
前近代から近代へ移り変わる時代の特殊性が逆に、人間の苦悩の普遍性をあぶりだす。

「三四郎」の広田先生が、主人公が日本はどうなるでしょう、と問いかけた際、即座に「滅びるね」と答えるくだりは
今も私の頭の中で強烈な予言となってリフレインしている。

夏目漱石も、また吉本隆明も文学の力を当然のことながら信じていた。
今日の文学に、楽しみ以外の何かを期待できるだろうか…
楽しければそれでいいじゃないか、というニヒリズムも否定できないが。


※ 夏目漱石を読む  吉本隆明 著  ちくま文庫(’09.9)

新盆の供花

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長年お世話になった主治医の奥様から礼状が届いた。
達筆の、男のような筆跡がいつになく乱れていて、悲しみのほどが察せられた。

最後の診察を受けたのが去年の4月。
その後休診が続き、病院側からの説明もないままに時が過ぎた。
当然あまりよい予感を抱くことはできなかった。

それにしても突然の訃報だった。
肝臓がんを患っていた先生は、そのことを本にも書き、病院ではご自身のことはおくびにも出されずに、患者を診続けた。
逝去されたことを遅れて知った不肖の患者は、せめて新盆に供えてもらおうと花をお送りした。

目の前からかき消されるように亡くなってしまった故人を思えば、そのあまりの恩恵の深さに思わず首うなだれる。
私の人工関節は先生よりのかけがえのないギフトであり、遺産である。
これを大切に使うことがささやかな恩返しになるだろうか…

相変わらず実家との間を行ったり来たりの生活である。
美容院で支払いを済ませようとしているところに
キキョウの花束を手にした男性が飛び込んできた。
美容師の親しい友人という感じだった。
「あら桔梗。」
最近は華やかな八重のトルコキキョウを見慣れた目に
楚々とした花の姿が胸に沁みる。
「ちょうどいいところに来たよ」
とその男性は言って、花を一本抜きとると茎を少し折って、手提げに入れてくれた。
男が男に花を贈るというのもいいものだ。
ラッピングせずに切りっぱなしで束ねただけの花は今さっきまで野にあるようだった。

私はその時、大柄の月下美人がプリントされたワンピースを着ていた。
花々は不運な退潮期にも、つかの間の安らぎを与えてくれる。
花を仲立ちとして、人と人の交流が生まれる風景はただただ美しい。
普段、その無形の癒しを人はあまり意識することなく過ぎているのかもしれないと思う。

「話し相手がいないのは寂しい」
奥様の喪失感の深さを思いながら、先生のご冥福をお祈りする。

※ 冒頭の写真:グラジオラス、モンステラ、キキョウランの葉

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7月17日 花が届く。
アナスタシア(菊)、ガーベラ、ハイブリッドスターチスの蕾、ケイトウ、ヒペリカム、トルコキキョウ

「スタンド・バイ・ミー」を30年後に観て思うこと

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ホームの上映会で、「スタンド・バイ・ミー」を観た。
私が過去に観たのは、劇場公開ではなく、テレビ放映によるものだったと思う。
線路上を歩いてゆく4人の少年の姿
それ以外にあまり強い印象が残っていないのはそのせいだろう。
一方、主題曲は身近なもので、少年期特有の切ないノスタルジーは今もって色あせることがない。

少年少女の家庭環境は様々で、平穏な家庭もあれば、問題を抱えた家庭も少なくない。
時代によって、家庭の姿は変わり、問題の質も変化する。
戦後は、経済問題が影を落とす場合が少なくなかった。
格差による子供の生きにくさは、昔も今も変わらないだろう。

家庭の不幸は必然的に、友情を求めさせる。
そして、卒業とともに進路を違えると、いつしか疎遠になってしまう。
私にも、何人か忘れられない友がある。
付き合いが続いているわけではないので、友と呼ぶのはおこがましいかもしれないが
交わしたちょっとした会話や行為が、その後深く沈潜したまま時が経過し
何かの折にふと思い出しては、彼女の言ったのはこういうことだったのか、と今さらのようにしみじみと胸を衝かれることがある。
あの人は今どうしているだろう…
こういう感慨に耽るのも、言いたくはないが、年のせいに違いない。

30年以上も経て、同じ映画に接してみると、映像そのものの属性であるノスタルジーと、鑑賞者自身の回顧が重なり、映画はさらに重みを増すようだ。

それにしても少年の物語はいつも痛切な喪失感に満ちている。
そしてこれは少女ではなく少年であることに、意味があるだろう。
少年たちは、こうした体験を経てホモ・ソーシャルを形成してゆくのであるが、少女たちの方はその世界から放擲されていることに、半端ではない嫉妬を感じるものなのだ。
これは根深い問題をはらんでいるので、この映画の主題から離れてしまう
ここで多くを述べるのは無意味だろう。

そういえば、ヌーヴェル・ヴァーグを代表するトリュフォーに「大人は判ってくれない」という作品があった。
エンディングの悲痛なストップ・モーションが忘れられない。
あの宙づりにされたような結末は、深い余韻を湛え、少年のその後を様々に予感させたものだ。
すべてが失われたものの物語だった。

↓You tube「スタンド・バイ・ミー」

https://www.youtube.com/watch?v=pHa4pvspCqc


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アジサイは枯れて取り除かれています
リュウカデンドロ、ハイブリッドスターチスのつぼみ、ルリタマアザミ、ヒペリカム、きょうらんの葉、黄色のケイトウ
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アジサイは水揚げが悪く、早々に枯れてしまったようです
リュウカデンドロ、リアトリス(菊の仲間)、ドラセナ 7/16



モードの誘惑

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仏文学者でバルザック研究者、山田登世子の「モードの誘惑」を読んだ。
「失われた時を求めて」が私の本棚で埃をかぶっている。
(時間の流れが源氏物語に似ているという説を発見したばかりだが)
バルザックもだいぶ昔に読んで、その後フランス文学からは縁遠くなっていた。

本書は、著者の死後、様々な媒体に掲載された、モードに関する文章をまとめたもの。
ブランドの持つオーラの源泉についても、ルイ・ヴィトン、エルメス、ココ・シャネルを中心に分析されていて、興味深い。
とはいっても、昨今の若者は、ブランド離れだけでなく、そもそも物欲が減退しているといわれる。
現代の状況は、山田登世子がモードについて書いたバブル崩壊直後とも違っているようだ。

昨日もテレビで大量の売れ残り衣料の行く先が話題になっていた。
極端なケースでは、ブランド力を維持するために、新品のまま焼却されることも少なくないという。
物欲はモノに対する愛着だ。
それもある種の幻想かもしれないが、所有することなくレンタルで済ませるおしゃれ、というものが私には未だよくわからない。
白洲正子のような目利きでも、晩年に、おしゃれは虚栄よ、と喝破していた。
虚栄は所有することと分かち難く結びついている、と考えること自体、すでに時代遅れなのだろうか。

フランス革命が貴族の時代の終焉とブルジョワジーの勃興を告げるとともに
ファッションは大衆化の流れに乗った。
「地位の顕示」であった、けばけばしいピーコックファションは、禁欲的にさえ見える地味な装いと非装飾性にとってかわられ、モダンとして支持された。

成金趣味への嫌悪が、ブランドへの志向をあからさまにしない時代というのもあった。
ブランドがもてはやされるようになったのは、バブルの頃だったと記憶している。
団塊の世代に続く年代の私たちにブランド志向は薄かった。
当時出版された「チープ・シック」がその世代のおしゃれ哲学を代表していたのではないだろうか。
金持ちらしく見えないことがシックと同義になったのは、ココ・シャネルの登場以来だという。
やがて、新奇性を越えて、ファッションの個人主義が始まる。

フランス文学からの用語を駆使する山田登世子の名文が、衣装哲学について改めて考えさせる。
ファッションもバルザックも同列において味わいたくなるのだ。


※ モードの誘惑  山田登世子 著  藤原書店(’1.8)


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チープ・シック お金をかけないでシックに着こなす法
        カテリーヌ・ミリネア、キャロル・トロイ 著
        片岡義男 訳  草思社(’77.4)

おしゃれ泥棒 モードとラブコメディのアイコン オードリー・ヘプバーン

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先週の金曜日のレイトショーでは、「おしゃれ泥棒」が上映された。
開演は19時と遅いため、観客は二人という贅沢さ。
それも最後まで観ていたのは私だけだった。
老人ホームでの上映会は、やはり昼の時間帯にすべきかもしれない。

「おしゃれ泥棒」といえば1966年に公開されている懐かしい映画。
ヒロインのオードリー・ヘプバーンは私にとってはほぼ同時代の女優さんだけれど、若いスタッフの中にも熱烈なファンがいることを知って、彼女の魅力の普遍性を感じた。
オードリーほど時代を越えて魅惑する何かを持っている女優を他に思いつかないほどだ。

ヘプバーンの映画はすべて彼女のためにつくられた映画といえるだろう。
ジバンシィの服と、今回の作品でも強調されるのはその大きな瞳である。
(対して、ピーター・オトゥールの緑青色の瞳が対比される)
彼女の眼には多額の保険がかけられていたとか。

ラブコメディも、現実離れしたおとぎ話になってしまうのは、オードリーのノーブルで清潔なキャラクターのせいだ。
監督はウィリアム・ワイラーで、脚本は完璧、手堅い作品であることは今さら言うに及ばない。

「服に守られている」と語っていたオードリーの言葉がリフレインする。
グラマラスな女優が席巻していた当時、バレリーナ志望だったやせっぽちのオードリーだからこそ、服の堅固さと優しさへの信頼がうかがえる。
なるほどと頷かせるジバンシィのやはり完璧な服。
中身が大事といいながら、やはり人は服によってつくられるところが大きい。

銀幕に映し出される、決してあり得ない夢…
夢を見ることができるという点だけでも、人間というものに期待していいのかもしれない…




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金曜日に届いた花


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秋色アジサイ、ひまわり、グリーンのバラ、ハイブリッドスターチス、カーネーション、木苺の葉


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モルセラ、ハイブリッドスターチス、百合