岡本かの子アムール幻想傑作集 美少年

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二子玉川から二子新地へと田園都市線で多摩川を渡るたびに、広い河川敷を眺めながら、かの子の実家大貫家のあった土地はどの辺だろう、と思う。
二子玉川の素封家の家。
幕府御用達の豪商であり、神奈川県橘郡高津村に広大な土地を所有する大地主でもあった。
かの子は、別邸の青山で生まれている。

文学部を卒業したばかりの青年に聞いても、岡本太郎を好きだと言う一方、岡本かの子の名を知らないというので驚いた。
そこで、かの子の短篇集に「アムール幻想傑作集」というようなタイトルをつけて、新規の読者を開拓するつもりだろう。

奇跡の14カ月という短くも多作な時期をもった樋口一葉に似て、かの子も、ようやく晩年に小説家として出発し、わずか数年の執筆で数々の名作を生みだした作家であった。
はじめは歌人として、結婚後は仏教研究家としてまず名が知られた。

本書の表題作「美少年」はどこか「たけくらべ」を彷彿させる。
下町のませた不良少年と病弱で過敏な山の手のお嬢様は、遊郭に住む美登利と僧侶の息子信如の、思春期特有の微妙な距離感を思い起こさせる。
ひかれあう者どうしの間に働く引力と斥力…
身分的に非対称な、これからおとなの世界に入って行こうとする少年少女たち。
少女のある種の残酷性と、少年の純情が際立つ。

一般にかの子の作風は「妖艶耽美」と評されるが、
生命力あふれ、活力に満ちた自信が、風が吹き渡るような空気感ではなくて、ゼラチン質に閉じ込められた濃密な気配として表現される。
虚構は現実以上に深く、微細な襞を折りたたみ、静止画となって定着する。
錯覚ともいえる、その第二の現実が、小説を読む醍醐味のひとつであることは言うまでもない。

かの子は腺病質の子どもだったというけれど、よく眼にする肖像写真は、素顔が判らないほど濃い化粧を施し、たっぷりと脂肪をまとった、一説に「童女」のような女性である。
図書館の「岡本かの子展」では、多摩川畔の鄙で育った健康的な豊頬の少女の写真が展示されていた。
かの子に小説指導をしたのは、10歳年下の川端康成である。

…この鋼鉄の廊門のような堅く老い黯ずんだ木々の枝に浅黄色の若葉が一面に吹き出ている坂道に入るとき、ふとゴルゴンゾラのチーズを想い出した。脂肪が腐ってひとりでに出来た割れ目に咲く、あの黴の華の何と若々しく妖艶な緑であろう。

「花は勁し」の一節である。
飛躍的な比喩が、美しくも官能的な自然の生気を伝える描写である。
主人公(あるいは作家自身)のナルシシズムが顕著な作品であり、美の追求が信仰と同様、求道的精神に導かれたものであることをよく示している。


※ 岡本かの子 アムール幻想傑作集 美少年  彩流社(’19.5)

マリアノ・フォルチュニ 織りなすデザイン展

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「マリアノ・フォルチュニ 織りなすデザイン展」を観に、三菱一号館美術館に出かけた。
三菱一号館美術館の展示空間が好きだ。
言うまでもなく、2009年に復元されたものではあるが、もとはジョサイア・コンドル設計による煉瓦建築である。

各部屋の広すぎない空間が、作品への集中力、喚起力を高めてくれるような気がする。
作品と視線の距離が小さくなって、親密さが醸される。
ひとりで訪れるのによい美術館だと思う。
あるいは、入場料を高めに設定しているせいかもしれないが、あまり混んでいないのもいい。
冷やかし的、物見遊山的な見物客をあらかじめシャットアウトすることになるから。

さて「フォルチュニ」とは一体何者?
衣服デザイナーとしての彼しか知らなかった筆者は今回、「20世紀のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と称され、「ヴェネツィアの魔術師」とも呼ばれるマルチな才能を持った芸術家であることをはじめて知ることになった。

彼を衣服デザイナーとして有名にした作品が「デルフォス」だ。
単純なパターンの服をまとえば、美しいプリーツが大輪の甘美な花のように開いてゆく。
蕾のアイリスが今まさに開花しようとする瞬間のようにも見える。
たためば小さな箱に難なくおさまってしまう。

発想の源は、ギリシアのデルフィで発掘された御者像「デルフォイの御者」にある。
馬車を操る男は長いローブを身につけていて、肩から足首にかけて幾重ものドレープが流れ落ちている。
仏像彫刻の衣紋の襞のようだ。
ドレープは独特のプリーツに変化して、シンプルながら優雅なニュアンスを表現している。
女性をコルセットから解放することになった画期的なファッションとして服飾史に名をとどめることになった。

因みに日本でファッション・モデルとして活躍していたティナ・チャウも、そのコレクションにデルフォスを加えている。
異常なほど縫製にこだわったという彼女が、デルフォスを愛するのはよくわかる。

フォルチュニの多彩な創造力は、なかでもとりわけ舞台という総合芸術に向かっていた。
照明から舞台美術のすべてに至り、彼の関わらなかったものはないように思われる。
ワグナーに心酔し、日本の着物や文様からも少なからず着想を得ている。
ヨーロッパのどこかデカダンな香りを秘めた豪奢と日本の繊細な美意識を比べて、彼我の民族性の違いなどについても考えさせられた。




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デルフォス(紫) 1920年代 神戸ファッション美術館蔵


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デルフォス(セイジグリーン) 1920年頃 神戸ファッション美術館蔵

松方コレクション展

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「松方コレクション展」が開かれている西洋美術館に出かけた。
ひと頃の暑さもようやく終息か、という9月12日。
会期終了も間近な週日、すでにチケット売り場前には長蛇の列ができていた。

レストラン「すいれん」にて、従兄と待ち合わせた。
外の椅子に座って空席を待っていると、こちらもあっという間に人の列ができ上がった。

常設の松方コレクションならいつでも観ることができるのだが、コレクションの全貌を知りたい、という人が、根気よく列に並ぶのだろう。
コレクションを見終えた結果、やはり来てよかった、という感想を持った。
展覧会というといつでもそうなのだが、行くまでは期待より億劫さが先に立つことがしばしばある。
以前から複製を観慣れていても、本物は力強いオーラを放って鑑賞者を惹きつける。
本物が持つ力は、美術館に出かけなければ味わうことができないものだ。
松方コレクションには、ルノワールあり、ゴッホあり、クールベあり、…
ブリューゲル、モローまで含まれていて、その蒐集の幅の広さに圧倒される。
モネなどは、直接画家から買い求めた作品も多く、キャンバスの前に立って絵筆をふるう画家の姿を生々しく喚起させるのだった。
贋作が話題になり疑念を抱かされる展覧会もないではないが、コレクターの松方と、仲介人、画家その人との関係が近ければ作品も信頼できる。

松方幸次郎は、第一次世界大戦の特需により巨利を得て、それが膨大なコレクションにつながった。
川崎造船はその後、金融恐慌の時に、三千人以上の解雇者を出すことになる。
一部のコレクションは売らざるを得なかった。
ロンドンで保管されていた作品は、1939年の火災で焼失。
第二次世界大戦ではフランスに預けられていたコレクションは、敗戦国の財産として接収されている。

絵画が画家の手を離れてから辿る運命は、作者さえ知りようがない。
人間の運命以上に数奇である。
稀代の傑作として購入を勧められて購入したゴッホの「アルルの寝室」は、フランス政府に没収されたまま返還叶わず、今回はオルセー美術館より貸し出された。
それにしても何と多くの、重要な作品を蒐集したことだろう。
作品を鑑賞するだけでなく、コレクションの成立経緯を知る上でも興味深い特別展だった。




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アルルの寝室 ゴッホ(1889)


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鳥罠のある冬景色 ピーテル・ブリューゲル(子)


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牢獄のサロメ ギュスターヴ・モロー(1873~76頃)


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すいれん にて ’19.9.12

櫻井よしこ著「何があっても大丈夫」

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櫻井よしこ氏は、右派、右翼、right wing に位置づけられるジャーナリスト、言論人だ。
韓国の従軍慰安婦や徴用工問題では気を吐いた。
詳細な調査を踏まえた上で、左派の主張に切り込む姿勢は、なかなか魅力的に映る。
論戦における冷静さ、話術の巧みさ…に間然とするところがない。

人物に興味をもち、回想記「何があっても大丈夫」を読んだ。
表題は、著者の母親の口癖である。
どんな困難に遭遇しても前向きに対処してきた人の、楽天性と自信をあらわす言葉だ。
一読して、逆境に陥っても決して他人のせいにすることなく、自力で前に進む母親に励まされて、今日の櫻井よしこがあることを知った。

ヴェトナムで生まれ、ハワイ大学で学位をとる。
華やかな国際性を印象づけられるが、物心ついた頃にはすでに実父は去り、女手ひとつで育てられる。
当然、経済的自立も早く、複雑な家庭環境の中で、葛藤を抱えながらも岐路に立つたびに臨機応変に対応してゆく姿勢が清々しい。
ウェットな精神風土の日本人としては、それこそ国際的と評される資質ではないだろうか、と思う。

一方、櫻井よしこ氏に共感しながらも、私が思うのは、「真実を伝える」というジャーナリズムの難しさである。
言論のあり方として、対立軸を鮮明にする手法に、疑いを抱くことがしばしばあるからだ。
左派、右派のレッテル張りをすることによって、問題点が分かりやすくなるという効用はあろう。
しかし、人は、ある時は左派で、ある時は右派ということもあり得る。
ぶれているのではなく、柔軟に客観的に考えれば、問題は自ずと多様な見方を強いる。
ディベートが流行るが、まずレッテル張りを止めて、理解し合い、学び合うという基本に立ち返ってみてはどうだろう。
問題によっては、あるいは判断を留保せねばならないこともあるだろう。
歴史を十分に検証するのは、知り得る限りの事実を発掘した上でのことだ。
イデオロギーが先に立つと、得てして水掛け論に陥りがちだ。
人間は複雑な生きもので、人事は錯綜している。
恨みが目を曇らせ、記憶は変質を免れない。

個人的には、従軍慰安婦及び徴用工の問題では韓国を非難したい。
しかし、例えば「南京大虐殺」ひとつをとっても、現場にいなかった者が真実を知るのはとても難しい。
結局は人間という存在についてどこまで深く考えられるか、がジャーナリズムの基本だと思う。
言論そのものではなく、だれが何を言ったかで世論は動く。
危険であるとともに、時間に追われる現代人にとって、ジャーナリストは代弁者として便利なツールでもあるのだ。


※ 何があっても大丈夫  櫻井よしこ 著  新潮文庫(’14.7)

宮前図書館のワークショップに参加しました

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9月7日、土曜日の昼下がり、宮前市民館の大会議室で開かれたワークショップに参加しました。
まず図書館のあり方に興味があったのはもちろんですが、これから川崎市民として生きてゆく上で、まず地域に住む人たちの意見に触れたいと考えたからです。

予め宮前市民館・図書館に関するアンケート調査があり、その際、今回のワークショップへの参加を希望していました。
宮前区役所、市民館、図書館などの機能が、令和7年を目途に鷺沼駅前に移設されることを聞いてはいましたが、新住民はその経緯について詳しく知る由もありません。
今回の催しは、市民館・図書館の移転・新設を前提に、市民の意見をくみ上げようという意図で開催されたものと推察しました。

小学生の参加もあり、希望者も含め無作為抽出で選ばれた市民は各年代にわたり、活発な意見交換が行われました。
参加者は5つにグループ分けされ、主催者側のファシリテーターが手際よく進行、意見を集約してゆきました。
私のグループには、小学校の先生だった方、司書を目指す?大学生、空き家を改造して読み聞かせなどの活動を行っている若い母親、…etc.いずれも人後に落ちない本好きとお見受けしました。
図書館は静かに集中して読書できる場所であればよい、オンラインで目的の本をほぼ確実に手にすることができるネット環境に満足している、旧態依然たる図書館利用者からすれば、若者の柔軟な発想による来るべき図書館像、長年読書教育に携わってきた方の経験に裏打ちされたアイデアの数々に目が覚めるような思いがしました。

最後に各グループの発表が行われました。
認知症の人や障害者などが利用しやすい図書館を、という要望も複数見られ、健康でエネルギーに満ちた若い世代が、ハンディキャッパーへ配慮する「余裕」にも心打たれました。
小学生からは、ハンモックに寝て本が読めたら本当に満足できる読書になるのに、と正直で無邪気な発言があり、うんうん、おとなもそうだよ、と頷きたくなる一幕もありました。
筆者からは、読書会(ブッククラブ)ができるようなコーナーが欲しい、と提案させてもらいました。
私語禁止でない図書館を希望する意見はとても多く、読書という孤独な営みから地域の交流にまで発展させたいという思いが強いことを知りました。
大学生からは「ラーニング・コモンズ」という考え方を教えられました。

市民が自主的に運営活動する様子が、うるさくない程度に「気配」として伝わってくる図書館は素敵です。
活気ある川崎市民の発言に、本離れがいわれる今日の出版事情にもかかわらず、まだ捨てたものではない、と意を強くする一日になりました。
ともに、本の森に分け入っていきたい…


※ 冒頭の写真は、グループごとの成果発表の際に、ボードに張り出された要望やアイデアの数々

「ロングライフ国際学会」に参加して

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9月6日の金曜日、「ロングライフ国際学会」という、ものものしいネーミングのシンポジウムに参加した。
有料老人ホームを中心に経営するロングライフグループが主催するもので、9つの介護の現場から研究発表が行われた。
テレビや新聞の取材もあったようで、小さめのホールに座りきれない盛況ぶりだった。

有料老人ホームや在宅介護などに携わるスタッフから、成果の一例が報告され、その内容を審査して賞を授けるというプログラム。
審査員長は跡見学園女子大学の学長で、美容家の佐伯チズ氏などが審査員に名を列ねていた。
シンポジストは中国、韓国、インドネシアも加わり、かなり国際的だ。

人手不足がいわれ、きれいごとでは済まないのが介護の現実だ。
生きる意欲を回復してゆく明るい事例ばかりが取り上げられるのも、或いはやむを得ないことなのかもしれない。
帰りのタクシーの中では、入居者のかなり辛口の意見も聞かれた。

ロングライフでは、社会福祉法人が携わっていた事業を、株式会社が手がける。
(なかには財団や公社、社会福祉法人が出資する有料老人ホームもあるが、ほとんどが株式会社だろう)
社会福祉法人が運営する特別養護老人は、社会福祉事業に位置付けられているが、株式会社は利益を出さねばならない。
入居者はサービスの対価を支払う。
雇用が生まれ、介護もひとつの事業となって、経済を活性化させる。
しかし、このことを以前はなかなか納得できなかった。
若者が老人の犠牲になるという見方や、老人をくいものにするという見方は、実は同じことを言っている。
この二つの見方は、若者と老人を敵対させる点では同じだからだ。

古来死に近づいた老人をどのように処遇するかは、民俗学上の大きなテーマだと思う。
日本にも「楢山節考」「蕨野行」「デンデラ」などの作品があらわれた。
北米インデアンには、死を覚悟した老女が、御馳走でもてなされた翌日、雪原の彼方に去って行く、という話が伝わる。
他の民族にも夥しい同類の伝説があるのだろう。

農業、教育など資本主義にはなじまないと言われる分野も、法人格を得て、助成金を得ながら運営される。
介護事業も、利益だけで評価される資本主義のなかで、どのように運営されるべきなのか。

様々に考えさせられるシンポジウムであった。


※ 冒頭の写真は、中国の発表




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インドネシアの発表


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韓国の発表

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会場のある汐留まで、スタッフの同行案内があり、とても助かりました。
ヤクルト本社ビル内の喫茶室で開演前に小休止。
世界各国で販売されているヤクルトもすごい。     ’19.9.6

手づくり時計 増田精一郎さんのアトリエにて

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朝夕の涼しさ、虫の音、最後のエネルギーをふりしぼる蝉しぐれ、せっかちな街路樹の黄葉、季節を先取りした秋色ファッション、・・・etc.

詩人は「小さな秋見つけた」とつぶやく。

日本の気候も二季性への移行がいわれるようになったが、一年を24節気に分ける繊細な季節感を忘れたくない。
しぜん季節の変化に対して、私たちは鋭いアンテナを張り巡らす。

無防備な手の甲が日に焼けて夏の名残を留めている。
ふと腕時計のベルトの色を変えてみたくなった。
奇しくも、八ヶ岳倶楽部で買った腕時計の針が動きを止めた。
文字盤の裏に2017.7.14と刻まれているのを見れば、すでに二年の年月が経っているのだ。

「革ベルトのグリーンが欲しいのだけれど…」
在宅を確認した後、時計作家の増田精一郎さんのスタジオを訪ねた。
吉祥寺通をユニクロのところで中道通に折れ、大分行く。
通りの両側には、洋服屋さんや雑貨やアクセサリーの店など、個性的な個人商店が軒を連ねている。
行きつけの美容室では、吉祥寺で商売を成功させることができれば、どこでも通用するという。
それほどの激戦区だそうだ。
中には小さなお直しの店がひっそりと佇み、窓越しに熱心にミシンを踏む女性の姿がかいま見える。
ギャラリーも多く、またクラフトの町というイメージも強い。

セブンイレブンのところでという約束だったので、電話をすると横道からスマホをのぞきながら現れた人がどうやら増田さんらしい。
工房の様子を写真に撮らせて頂いたので、余計な説明は省く。
時間の概念を見えるかたちにした時計というツール。

まず、時という抽象に対する様々な想いがある。
ある人は哲学的な思索に誘われ、ある人は際限のない詩心を刺激される。
時計という、いうなれば冷たい機械が、そのデジタルな時を刻みながら、時を拘束し、老いを進める。
時と私という存在はどこでクロスするのだろうか…

増田氏は、この秋、10月24に日より八ヶ岳倶楽部に出品するという。
今夏は行き損ねたので、紅葉に彩られたギャラリーで、移ろう時を物質化した時計たちに会ってみたい。





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アトリエと店を兼ねたスタジオ


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清泉寮の新館を設計した人も顧客の一人だということだ。
デザインの原点には物語がある。

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時計作家である増田精一郎氏は「厚生労働省公認一級時計修理技能士」という厳めしい肩書を持っている。
腕時計の文字盤に数字のかわりに干支の文字を刻んだもの、文字盤のバーカウンターに並んだ洋酒の瓶は、樹脂ではなく金属を加工し彩色したものだそうだ。
器用なだけでなく
金属を腐食させてニュアンスを出したり、革ベルトにラメをあしらうなど、さまざまな材料の使い方に精通しておられる。
私の黒の革ベルトのラメはまるで銀河のようだ。
文字盤の腐食は夜空の神秘を小さな腕時計の中に閉じ込めたようだ。
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ヴィンテージものの時計 中古ではなく新品だそうだ
額縁の中は、時計を構成する小さな小さなパーツを集めたもの。

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スタジオの入口
もう終わりだという、桃葉桔梗の白い小さな花

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