原爆忌に

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原爆忌はすでに74回を迎える。
去年までは、テレビで平和記念式典を観ていた。
4年前の12月に平和記念公園を訪れ、原爆ドームを目の当たりしてから、この暑いさなかの式典がより身近に感じられる。
けれども原爆投下とその被曝の実態は、体験者でなければ語れぬ言葉があり、悲惨を極めた現実には到底近づくことができない。
過去が遠のくにつれ、体験者は益々少なくなり、戦争とともに記憶がうすれてゆくのは避けがたい。
それは、人間の悲劇が抽象化して、歴史上の一事象となってしまうということだ。

ラジオ体操の時、つい最近入居された男性が、原稿用紙に書かれた手記と一葉の写真を持参された。
写真は、若き飛行機乗りの姿だった。
ご夫婦で入られたその方は、終戦時特攻隊員で、高射砲の扱いを指導していたがため、危うく出撃を免れたそうだ。
74年前の8月6日、海軍の軍人だった17歳の青年は、呉軍港の砲台で、一機のB29を目撃している。
それが原子爆弾リトルボーイを搭載したエノラゲイだったのだろう。
数分後、「すさまじい閃光」続いて大地を震わせる爆発音が起こったという。
「巨大なきのこ雲が空をおおい」辺りは次第に暗くなってゆき、やがて黒い雨が降り出した。

手記は、その後救援に向かった広島で、被爆した人々の惨状に触れ、平和を祈念する言葉で締めくくられている。
実際に被曝した方から話を伺うのははじめてのことであり、入居者の中にそのような方がおられることに一同びっくりしたのだった。

戦争の記憶を風化させないために、聞くこと、記録して後世に伝えることの大切さを痛感する。
原爆は人殺しの道具としての禁じ手である。
しかし人間一人一人にとって数は無意味だ。
大量破壊兵器だけでなく、行軍、戦場の最前線、逃亡する地元民、…
人の死に対して鈍感にならざるを得ないのが戦争というものだろう。

火野葦平の「土と兵隊 麦と兵隊」を読む。
著者は戦後、戦犯に問われ、公職追放され、1960年自死している。
従軍記者として書いたものは、戦時の空気の中で修飾は避けられなかっただろう。
テキストの中からどのような真実を探り当てるかは、読み方次第ということだ。


※ 土と兵隊 麦と兵隊  火野葦平 著  社会批評社(’13.5)