土と兵隊 麦と兵隊

25616695_1.png



本書中に果たして戦争協力的な表現があるかどうか。
改めて「麦と兵隊」を読んだ。
火野葦平は戦後、戦犯ともされ、公職追放となっている。

徐州会戦までの従軍記録は、あらゆるドクマから自由であろうと努めているようにみえる。
当然検閲は行われ、当局から削除を命じられた部分も含んでいる。
最終稿は、捕虜の殺傷シーンなど、記憶をもとに補筆された。
もとより記憶ほど変質しやすいものはない。
その点を共通認識として、戦記の類は読まねばならないと思う。

終戦となり武装解除された兵が内地へ帰る時、戦場で見たことは他言無用を言い渡されたという。
一方、GHQに情報と引き換えに、戦後の地位を保証された人々がいたことは、これとはまた別の問題である。
戦場における日本軍の非道を口にすることで、八紘一宇の虚構が崩れ去ることを、この期に及んで恐れたか。
或いは、戦争責任を問われる上層部の保身からか。

火野葦平は、行軍と戦場での有様を坦々とした筆致で描き、あえて戦争の理非について解説を加え、弁明を試みたりするわけではない。
迎合的なジャーナリズムについては、一将校の口から批判的言辞がはかれ、それがそのまま本書に書かれている。
戦意高揚的表現を弄するのは、原稿を持参して検閲を受けに来る記者の方である、という火野の主張が伺われる。
(今日のジャーナリズムにも同じことが言える。歴史に学ぶべきはメディアも同様である)

「私」を超えた大いなる「なにか」のために、困苦極まりない行軍と戦闘に従い、疲れ果てながらどこか太々しい不敵さを漂わせる無口な兵たち…
従軍記者の目は、同情を禁じ得ない。
センチメンタルと断定されかねない記述もしばしば見られる。
多分それこそ小説家が、戦争責任を問われるポイントである。
戦後、一向に反省的言辞を述べることのなかった小林秀雄にも通じるところだ。
時代をともに生きた人間でないと、理解しきれない空気がある。
しかし同時に、そう考えてしまうことは歴史認識における敗北を意味するのだ。

戦友とは特別な関係だといわれる。

・・・・・・
私は私の部下を死の中に投じ得ると云われた偉大なる関係に対して、その責任の重大さを思い、その資格について危惧していたけれども、それは何も考えるほどのことではないことが判った。それは又思想でもなんでもない。私が兵隊と共に死の中に飛び込んでゆく。兵隊に先んじて死を超える、その一つの行為のみが一切を解決することが判った。
・・・・・・


以上の記述を文学的文飾とばかりは言えないだろう。
火野葦平にとっての真実だったと考えることが、日中戦争を侵略戦争と規定する読者にとって、最大限の譲歩といえる。
しかし、戦場には同じ人間である敵がいて、その死が求められる。
彼等への共感もまた著者にないわけではないが、戦場という非日常において人の命は数に還元されてしまい、覚醒した理性が告げるしぜんな同情が霧消してしまう。
食べて寝て、疲れを癒さなければならない兵隊たちにとって、戦場は日常でもあった。

ほかならぬ命の重さ、について考えさせる書物

「死をも乗り越えた、大いなる高き力」とは何か?
社会批評社編集部による解説は、「侵略者」としての自覚がないことを明記している。




※ 土と兵隊 麦と兵隊  火野葦平 著  社会批評社(’13.5)

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント