食卓の風景 ようやく独りぼっちから脱出しました

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先日、ホームに新しく入居された方がおり
ダイニングでの独りぼっちの食事からようやく脱出できました。
上げ前据え膳でバランスのとれた食事ができることに、その方はずいぶん喜んでおられて、私もその幸せを再確認することになりました。

母の年齢より少し若い方で一人暮らしをされていたとか。
「娘がこわいのよ」
と、おっしゃるので、心配のあまり厳しく接してしまう娘心はどこも同じなのだ、と納得した次第です。

その前に、学生時代からの友人たちの来訪あり。
ホーム見学を兼ねての会食となりました。
ホーム長が「満足して頂けたかしら」というので、その気遣いがうれしかったです。
きょうまたお一人入居者があるそうです。

母の様子を見に、今日から実家に帰ります。
その間、ホームも少しにぎやかになっていることでしょう。




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オリジナルカレー
このホームのカレーは、伝統カレーとオリジナルカレーの2種類があるそうです。
よりスパイシーなこちらのカレーが好みかな・・・

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6月13日、ハワイアン・リボンレイの教室が開かれました。
残念ながら参加できませんでしたが、その華やかさ、美しさを記録させて頂きました。
生花や鳥の羽を消費する従来のレイと違って、自然素材の枯渇を防ぐ意味もあるとか。

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久しぶりに富士山の姿が見えました


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毎朝6時に遠くから鐘の音がきこえてきます。
この泉福寺の梵鐘と知りました。
この地方は昔から花卉栽培が盛んだったそうで
境内には花供養の碑がありました。
子育て中なのか、カラスに3度も襲撃されこわい思いをしましたが・・・

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麺類とご飯をいっしょに頂くのは関西風。
時々メニューに出てきます。

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伝統カレー

旧門司港ホテルにて

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港の見えるホテルというと、ホテル・ニューハコダテを思い出す。
銀行の建物をリノベーションしたもので、好きなホテルだったが、残念なことにだいぶ前に廃業してしまった。
(と思っていたら、こちらも2017年にホテルとして再オープンしたそうです)
門司港ホテルの方は売買収の結果、プレミアホテル門司港として健在である。

建築の詩人といわれるアルド・ロッシの遺作とされる。
(彼は交通事故死している)
内装は内田繁。
窓枠や鎧戸、壁に取り付けられたキャビネットの色づかいが懐かしく、素敵だ。
関門海峡に面した窓の下に棚のようにテーブルが作りつけられており、椅子が二つ、窓に向かって並んでいた。
グラスとティーカップを収納した小さなキャビネットは壁にぽつんと配置され、鎧戸と同じグリーンに塗られている。

ホテルは、はね橋を渡った対面の、黒川紀章設計によるタワーマンションの最上階から見下ろすと、まさに大海を悠然と泳ぐ鮫の雄姿にうつる。
本州との結節点である海峡に面した町である。
この町を歩きながら、建築家は構想を練ったという。
都市と構造物の関係を「都市の記憶」として夢想した彼は、「たまたま建築家になった詩人」とも評された。
詩人で建築家というと立原道造や渡辺武信が思い起こされるが
都市そのものが詩的な喚起力をともなって見えてくるのがアルド・ロッシの作品の魅力だろう。

このホテルだったら、居ながらにして海峡の歴史を遡上し、物語の世界に参入できるだろう。
そして、いつしか、窓という装置の意味について考えさせ
俗人を一刻だけでも詩人にしてくれるような気がした。




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                                        ’19.6.11







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通称あじさい寺 妙楽寺にて

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今年は、引越しという身辺の変化があり、ゆっくり紫陽花見物をする余裕もなかろう、と半ば諦めていたところ、地元に妙楽寺という名所があることを教えられた。

先に入所されていた方とごいっしょして、タクシーを走らせた。
ホームでも来年は是非皆で行きましょう、などと話し合っていたところだった。

ところは、川崎市多摩区。
山号は長尾山。
多摩丘陵は長尾丘陵の一角だという。
(多摩川を眼下に望む丘陵地帯だ)
タクシーはうねうねと住宅地の坂道を上って行く。
前方にこんもりとした森が見えてくると、そこが妙楽寺だった。

本堂まで真っ直ぐに続く参道の両側を紫陽花が彩っている。
晴天だったが、桜の古木が影をつくり、その木洩れ日の下に紫陽花が咲き競っていた。

解説版に寺の由緒が記されてある。
「吾妻鏡」に源家累代の祈祷所として「威光寺」の名がみえ、その寺との関連が指摘されている。
源頼朝は弟の全成(ぜんじょう)を威光寺院主とし、その所領を安堵、同寺を手厚く保護したという。
それも多摩川右岸丘陵を軍事的に重視したためだ。
近年、土蔵に安置されていた薬師如来の脇侍・日光菩薩の胎内から墨書が発見され、16世紀中頃にも威光寺が存在していたことが判明する。
妙楽寺と威光寺の関係が推定されるのは、この仏像が客仏として妙楽寺に伝来していることによる。
妙楽寺は、かつて広大な寺域を占めていた威光寺の一坊であったかもしれない・・・

紫陽花の美しさは、雨に洗われた姿の清浄感からくるようだ。
傘を差して、或いは欲を言えば雨上がりの直後が、その美しさを最高度に発揮する。
折から施設の車が次々と、髪の白い婦人たちをお連れする。
堂の軒下に腰を下ろし、紫陽花に対面する婦人たちの姿を見て、母を思い、見せてあげられないのが残念だった。

美人画の鏑木清方がこよなく紫陽花を愛したことは有名な話で、雅号「紫陽花舎(あちさゐのや)」を名のっている。
今のように多彩な品種のない時代に、紫陽花は日本人の美意識に深く訴えたのである。
同寺での紫陽花の見頃は7月上旬までだそうだ。




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'19.6.19



歴史と文学の町 小倉を歩く

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北九州出身やゆかりの作家というとまず、松本清張、火野葦平、俳人の杉田久女、…etc.
森鴎外は軍医として小倉に赴任、約3年を過ごしている。
その時「小倉日記」を残しており、一時行方知れずになっていたその日記を探索する物語「或る『小倉日記』伝」を松本清張が書いている。
小倉に出生届を出している松本清張は特に北九州と縁が深い。
工場群の夜景を見た翌日ということもあって、その才能を生かし切ることのできなかった市井の人々の物語が胸を打つ。

いずれにせよ北九州は文学散歩だろう、と思い、観光案内所で「小倉まちなか文学散歩コース」というパンフレットをもらってきていた。
月曜日なので、残念ながら市立文学館は休館日にあたっていたが、松本清張記念館は開館しているという。

小倉城へタクシーを走らせ、エレベーターで天守に上れるようリニューアルされた小倉城を見学した。
天守閣まであの梯子段のような階段を上らずにすむのは、珍しい。
小倉城天守閣内部が全面改装されてオ-プンしたのはほんの2か月ほど前のことだ。
小倉城の歴史を解説する展示物を観たあと、天守閣の最上階で小倉の町の360度の展望を楽しんだ。

小倉城は、中国地方を領有した毛利氏の築城にはじまり、関ケ原の合戦で功のあった細川忠興が入国してから本格的な築城が行われ城下町が形成された。
細川氏が熊本に転封となった後、細川氏と姻戚関係にある譜代大名の小笠原氏が入国。
小笠原氏は徳川家光より、九州の大名を監視する特命を受けていたという。
小倉は九州各地に通じる街道の起点であった。
城内の下屋敷に池泉回遊式庭園を築いたのはその5代目藩主である。
幕末期には長州を攻める幕府の拠点となって、逆に長州藩軍に攻められ落城する。

その後、松本清張記念館へ。
杉並区高井戸の自宅を移したという、書庫が圧巻である。
何年か前、大阪の司馬遼太郎記念館を訪ねたことがあったが、吹き抜け空間を圧する書棚が作家の仕事を象徴する装置になっていたのを思い出した。
清張記念館は開館21年目にあたる。
司馬遼太郎記念館はその後の開設になるので、やはり清張記念館にインスパイアされたのだろう、と推測する。
文藝春秋創刊1000号記念特集号では、同誌への執筆回数を相撲番付になぞらえて、清張を東横綱、司馬遼太郎を東大関としている。
いずれにせよ今日の作家で記念館まで設立される売れっ子がいるかと考えた時、活字離れが進む時代にあって、すでに文学そのものが古色を帯びた骨とう品のようなものになってしまったような気がしたのだった。

新宿育ちの友人は愛人のもとへ通う松本清張の姿をよく見かけたものだという。




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ステーションホテル小倉
7階ロビー階テラスよりの眺め
八幡製鉄所はじめ洞海湾沿いの工場地帯が遠望される

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旧第十二師団司令部の正門
この本丸跡に建てられた司令部の正門は明治31年当時のもの
明治32年(1899)6月から第十二師団の軍医部長を務めた森鴎外もこの門を通って登庁した。
なお、ここは鉄門(くろがねもん)跡で、武士の登城口だった。
藩主・家老などごく限られたものは槻門(けやきもん)を通った。

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宮本武蔵と佐々木小次郎の碑
宮本武蔵は、小倉藩(細川藩時代)の剣術指南役だった佐々木小次郎と巌流島(舟島)で決闘を行った。
養子の伊織が小笠原藩の家老だったこともあり、武蔵の生涯で最も長い7年間を小倉で過ごした。
「吾家は小笠原家に遺し、吾技は細川家に遺す」と語ったと伝えられる。

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小倉城天守閣
現在の天守閣は1959年に復興されたものである。
細川忠興が築城した当時の天守閣は、最上層の入母屋風破風以外に破風が無い簡素な外観だったという。
「唐造り(南蛮造り)」と称された当時の天守は、当代一流の茶人であり、文化人であった忠興の美意識を反映したものであり、視察が訪れるほどの評判を呼んだ。
この天守は天保8年(1837)の失火により御殿とともに焼失している。
現在の天守は、鉄筋コンクリート構造。
建設資金を提供した地元商工会の要望により、大入母屋破風や千鳥破風、唐破風などが付け加えられた。
よって忠興築城の際の個性的な外観は失われ、いかにもお城らしい天守閣になっている。
残念なことだ。
(このようにして史実は曲げられ、通俗的な見世物になってしまうのだらう)

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大太鼓
藩政時代、小倉城天守閣の最上階に置かれていて、事あるごとに城下の人々に急を告げていたと伝えられる。
ケヤキ作りで牛一頭分の皮が使われている。
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天守閣より南側の眺め
中央、ブルーの屋根は北九州市立文学館と市立図書館
背後の山並みの右手は皿倉山

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天守閣より北側の眺め
カラフルな建物は、リバーウォーク北九州
文化・芸術・情報発信・商業などの大型複合施設
右下の鳥居は八坂神社
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天守閣より西側の眺め
山並みの中央は高塔山 
目を凝らすと、中央の建物の背後に若戸大橋が小さく見える。


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天守閣より東側の眺め
足下に小倉城庭園 背後の山並み、中央右手に小文字山
右手に半分見える建物は北九州市役所庁舎
紫川が南北に流れる。

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北九州市役所庁舎

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小倉城の石垣は、切り石ではなくすべて野面積みと呼ばれるもの
天守閣造営は普請、石垣は作事の分野ということになろう。
普請は身分制社会の権威をあらわす構造物をつくり、作事は技術者集団の手わざのあとを伝える。

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松本清張記念館


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杉並区浜田山にあった自宅を再現している。
応接間はベテランあるいは新人の編集者と対面し、作品がはじめて外部と接する場所であった。

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蔵書は約3万冊


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小倉城庭園
天守閣を借景とする池泉回遊式庭園

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小倉城庭園
結婚式の二人を撮影している。
背後の建物は北九州市役所
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書院より庭園を眺める


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池面が周囲よりかなり低くなっている。
これを「のぞき池」というそうだ。
書院の広縁より庭全体を見渡すことができる。

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小倉城庭園には展示棟があり、常設展示では「礼法」の歴史が紹介されていた。
また少しではあるが杉田久女に関する展示もあり。
企画展示は「猫」がテーマ

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八坂神社の鳥居より


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リバーウォーク北九州                          ’19.6.10




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北九州工場夜景 海上からの眺め

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小倉で催された某患者会の大会終了後、北九州夜景観賞定期クルーズに参加した。
北九州市の工場地帯の夜景は、前から観たいと思っていた風景のひとつだ。
運航は4月から9月の土日に限られるので、ラッキーなめぐりあわせだった。

小倉港に向かうタクシーでは、杖をつく友人の姿をみて
「大丈夫ですか。揺れますよ」
と、気遣う運転手も実際には乗船したことがないらしい。
出航は19時。
船は、下関間の関門海峡部分では結構揺れるが、やがて洞海湾へと入ってゆくと、波は穏やかなものとなる。
(ただ、デッキ上は風が強く、夏とはいえ冷えるのでコートを着用しないと2時間近くのクルーズがもたない)

すみれ色に黄昏行く夕景に工場群のシルエットが黒く浮かび上がる。
日本製鉄(株)八幡製鉄所はじめ、九州電力小倉発電所、三菱ケミカル、三菱マテリアル、東京製鉄などの工場群の間を進んでゆく。
日本の重工業黎明期の、近代化へのわくわくするような興奮が伝わってくる。
一方、それは酷い公害を引き起こし、ばい煙と工場排水は、人々の健康をむしばんだ。

事業欲とは無縁の私でも、重厚長大な産業が見せる景色に、ある感傷を覚えずにはいられない。
学生時代は、水銀やカドミウム、さまざまな公害が連日メディアを賑わし、無力感にさいなまれていたのも事実で、そちらの方に胸が痛む。
今日の中国が、さらにその規模を拡大して、公害を再現しているのだ。
筑豊炭田に近く、日本の高度経済成長をけん引した工場群は戦い疲れた兵隊たちのようで、どこかもの悲しい。

近くにできた小学校は、創立間もなく煤塵のため廃校になったという。
船中でアナウンスされるボランティアガイドの話が、地元ならではのエピソードを伝え、とても興味深い。

旅はいつでも多少ともセンチメンタルな気分を呼び起こす。
それは非日常の魔力であり、同時に感傷へと誘う陥穽でもあるのだけれど…

私たちは下船後、コンビニで夕食を調達し、駅のホテルに向かった。




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リーガロイヤルホテル小倉


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小倉駅


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リーガロイヤルホテル小倉


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ステーションホテル小倉7階レストランより駅南口の眺め
平和通りの上をモノレールが走る

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ステーションホテル小倉12階ゲストルームより駅北口の眺め


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洞海湾沿いの工場群がみえる


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小倉港で夜景クルーズの出航を待つ


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ミクニワールドスタジアム北九州 旧北九州スタジアム


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八幡製鉄所


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煙突からフレアスタックが見える


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市場とガントリークレーン


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若戸大橋
建設当時、東洋一の夢の吊橋と言われたそうだ。

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ガントリークレーン


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2018年に北九州市は、長崎市、札幌市とともに、日本新三大夜景都市に認定された


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若戸大橋                                  ’19.6.9  
関門橋、レインボーブリッジ、明石海峡大橋、瀬戸大橋など日本の長大吊橋の先駆けとなった。


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坂の町に住む

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ホームの周辺には坂が多い。
○○台という地名が示すように、台地と谷筋が入り組んでいる。
歩道もフラットではないので、ぼんやり歩いていると、から足を踏んだり、躓いたりしかねない。
そんな坂の町に引っ越してきてから早1か月以上がたつ。

自転車は下り坂でスピードがつき、こわいほどだ。
それでも地元の人は平然と自転車を乗りこなし、高齢者でも息切れせずに坂の上り下りをしているように見える。
実際この地域では健康年齢が高いらしい。
杖をつきながらようやく歩を運んでいるようなお年寄りの姿を見かけない。

引っ越してから必要なものを買い足すために、しばしば近くの百均に行く。
ものの10分とかからない道のりだが、結構運動になっているらしく、食事はいつも残さず頂いている。

坂の町は時に、景色に詩情を与える。
画家が坂道を好んで描く所以だろう。
若者は、胸突き八丁の坂道を、みるみる遠ざかってゆく。

最後の坂を上りきって、ホームに帰り着くと、その日夜勤のスタッフが花の剪定をしていた。
カシワバアジサイの清楚な白が美しく、立派に咲いた花冠を切り花にして、活けようというのである。

誰でもいう。
住み慣れた町で最後まで暮らしたい、と。
それを怠惰や停滞のしるしと考えがちだった私にも、親密さの持つ偉大な力が分かりはじめてきたようだ。
親しみに包まれて覚える安心感と、風景の違いがスイッチを入れる詩情はどうも両立しない。
この町の紛れもない住人になる頃には、いつか坂道のもつ魔力も消えてしまうのだろうか…

※ 三叉路の不思議な魅力に気づいた画家がいたっけ。それもここでは坂道なのだ。



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6月5日の昼食
鶏の葱ソースかけ だし巻き卵 オクラのおかか和え



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6月6日の昼食
ぶっかけそうめん 高野豆腐の含め煮 いなり寿司 水羊羹
ご飯と麺類をいっしょに食べるのは関西からきた習慣だとか。
デザートもお手製だそうです


空の名前

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部屋のクーラーを使ったことはまだほとんどない。
高台を吹き抜ける風が涼を運んでくる。
空が広い。
戸を開け放てば、車が通行する町の喧騒が上がってくる。
空は悠々と、我関せず、と変化してゆく。

昼下がり、実家ではほとんど開くことのなかった本「空の名前」のページを繰りながら、頭上はるかな雲の名を探した。
積雲がいつの間にか平らになって、空の表情が変わっている。
目は時々刻々と変化する雲の形を見極めようとするが、デジタルでとらえることは不可能だ。
雲はじわじわと変貌し、視線を欺くのだ。

実家は、樹木と深い軒に遮られているので、空を見上げることができなかった。
月食や日食、彗星の出現、稲妻や近くで上がる花火でさえ、障害物のためほとんど観察できない。
空を定点観測するのは半ばあきらめていた。
それが、こちらのホームに来てからは180度近くの眺望が開ける。
右方に富士山が見えるが、それも小さなランドマークに過ぎない。
この高台では、空が主役だ。

目の前の鬱蒼と茂った樹木はどうやら鳥たちのねぐらになっているようだ。
時に鶯の声が聴かれる。
背後のロビーではマルチャンと名付けられたオカメインコが歌い、盛んに愛嬌を振りまいている。
ホームの内装が鳥を主題としているのも、都会のバード・サンクチュアリといった趣がヒントになったのかもしれない。
それでも、ここでは空が主役だ。
圧倒的なスクリーンとなって、下界の私たちを楽しませてくれることだろう。




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6月3日の夕食 ピーマンの肉詰めはボリュームたっぷり


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6月4日 夕食は鯖の味噌煮 家の味付けと比べて少々甘目ですが、美味しくいただきました。


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6月4日 19時頃 煌々と24時間点灯しているのはメガ・ドンキ


画像 空の名前 改訂版
 高橋健司(写真・文)
 KADOKAWA(’99.12)
 私が参照したのは
 平成4年初版の光琳社出版のもの
 

実家と、行ったり来たりのホーム生活

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ホーム入居後、一か月余が過ぎようとしている。
今のところ自宅とホームの間を行ったり来たりする、落ち着かない日が続いている。
実家を後にする時、母がひどく寂しそうにしていたのが気がかりだった。
家族それぞれの要望を満たす選択のはずが、決断する時点で、すでにそれぞれ断念したことがあったのだろう。

また、あろうことか、まさか自分が熱中症になろうとは!
実家(どちらが自宅なのだろうか)に帰った翌日の朝のこと。
一度は起床したものの、ひどい頭痛と悪心で、再びベッドに倒れこんでしまった。
その日は、立とうとすると途端に吐き気を催すので、じっと横になっているしかなかった。
水分をとらなくてはと思うのだが、麦茶の麦のにおいさえ嫌で、結局何も口にすることができなかった。
こういう時は病院で点滴してもらうのが一番いいのだろうが、通院さえかなわない。
結局2日近く寝込んでしまった。

一週間後ホームに帰宅?して看護師さんにその旨伝えると、私のは重症だという。
実家では高齢の母に迷惑をかけるわけにはいかないので、我慢するしかない。
ダイニングに足を踏み入れると、吹き抜ける一陣の風!
その涼しさとテーブルごとに飾られたカーネーション。
家族でなければできないことも当然あるが、仕事として責任をもってケアしてくれるスタッフだからこそ冷静に対処できることがあるのだ。

ホームで生活し始めると、食事にかかわる家事をパスしているからでもあるが、わずかの備品で十分暮らして行けることがわかる。
家にいかにモノがあふれていたか思い知らされるのだ。
昼食後ダイニングで本を読んでいると、高齢の男性が見学に来られて、職員と話しているのが聞こえてきた。
そのひとつひとつに共通する思いを発見し、皆さん同じことを考えているんだなあ…
まずは「断捨離」である。
諦めは即悟りか。
一代聖教皆尽きて南無阿弥陀仏に成り果てぬ、という一遍の言葉が過る。

次回、実家に帰った際は、できる限りモノを処分しようと決意する。
今日は、スッタフ4人がかりでベッドの位置をかえてくれた。
新卒で入社した青年以外はみな女性である。
電動の重いベッドだ。
女の力、侮りがたし。
これもこのホームに来ての実感である。



※ 冒頭の写真は5月25日の夕食。
   チキンソテーはジューシーでふっくらと美味しく調理されている。
   自家製のバナナケーキが美味しかった。

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5月26日、日曜日実家へ帰る前に、公民館で仲間の集い。
学習室の窓から見える風景。

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ホーム帰着後、6月2日の昼食メニュー
材料が変更になったことをスタッフがわざわざ断りに来た。
メインは鰆の塩焼き。
ほうれん草が青梗菜に変更のよし。