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zoom RSS 全生園を訪ねて

<<   作成日時 : 2018/01/13 19:24   >>

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お正月気分も抜けてすっかり日常にもどった快晴の日、全生園を訪れた。
所沢街道を車で通る度に、看護師ほか職員を募集する看板が古ぼけたままずっと掲げられているのが目についた。
いつか訪ねようと思いながら、縁のなかったハンセン病療養所だ。
国立ハンセン病資料館の広告が私鉄車内に掲示されるようになって、敷居が低くなったような気がした。

近くに住んでいたことのある友人は秋津駅へ急ぐのに、自転車でいつも園内を横断していたとか。
夏祭り、花見の季節には近隣の住民で賑わうという。
敷地面積は36万u
資料館入口より、反対側にある正門まで歩いて15分くらいだろうか。

資料館は、ハンセン病をめぐる歴史や療養所での生活、隔離されてなお人間的な生き方を求めて葛藤する人の姿を展示し、見応えのある内容になっている。
ここへ来て、何の感慨も抱かない見学者はまずいないだろう。
感染力の弱いライ菌を恐れ、誤った隔離政策をとった過去の歴史を遡って、患者のおかれた過酷な運命に涙することは容易い。
しかし、同情からは何も生まれない。
涙を流すだけでは得るものはカタルシスだけだ。

患者へのケアが社会から隔離された場で行われたという事実について再考してみたい。
人権を問う、それも従来自明とされた人権概念を批判しつつ、ラディカルで前向きの建設的な議論を行う時が来ているのだと思う。
重いテーマであるが、差別をセンチメンタルな文脈で語ることから離れ、冷静で客観的な分析を必要としているのだ。
ライ病患者だけの個別の問題ととらえず、「ケア」という視点から普遍的な課題が浮かび上がる。

亡父が数学を教えに通ったという全生園跡地に立ち
すべての死者に報いる道がきっとあるに違いない、と思う。




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国立ハンセン病資料館
前方右手に「さくら公園」 もとは入所者の畑だったところ。桜開花の頃は地域の住民1万数千人が花見に訪れる。


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母娘遍路像 資料館玄関にて
ハンセン病回復者の中には、入院前に四国遍路を経験した人が少なくないという。
病気を知られず、迫害から家族を守るためには、遍路にならざるを得なかったからだ。
映画化された松本清張作「砂の器」のシーンを思い出す。
世界にも例を見ない風習だそうだ。
遍路道も、ライ者が辿る道は別にあったということを読んだ覚えがある。
多磨全生園大師講を中心に結成された「母娘遍路像建立委員会」が全国から寄せられた善意をもとに建立したもの。

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最初の火葬場跡
全生病院最初の火葬場は当時、院外であったこの納骨堂のあたりに1911年に造られた。
大八車で遺体を運んだ丁髷頭の老人は、新入院の患者を東村山駅から人力車で病院に連れて来たりもしており、その途中で「もう一度乗せてやる」と言ったものだという。
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納骨堂
起工以来、延3442人の患者作業によって1年後に竣工。
老朽化のため、昭和61年に同型1.5倍の納骨堂に再建された。
正面「俱会一処」の文字は東本願寺法主・大谷光暢の揮毫。
開園以来の物故者は4085人(平成22年11月現在)
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納骨堂周辺のイチョウの木の下
落ちたぎんなんが、まるで絨毯のようにびっしり敷き詰めている。
昔は収穫したものだろうが、今も残る入所者の平均年齢は85歳。
拾う人もいない。
納骨堂に手を合わせた二人の女性が、驚いて道を引き返していった。

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「けやきと一人一木並木」
中央通りに植えられた39本のけやき。
昭和57年、その欅の間に「一人一木運動」として一本5千円の寄付を募り、椿や山茶花が植えられた。

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住宅の一部がみえるが、快晴のこの日、洗濯物が干された風景はほとんど見当たらない。


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資料館西側の空き地
かつてはここにも平屋の住宅が建ち並んでいたのだろう。
貞明皇后のらい救済の意向を受けて設立された「財団法人全生病院互恵会」の活動を顕彰し、人権差別・偏見のない世の中になることを祈って建てられた記念碑。
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ショッピング東通りと表示されているが、稼働しているのは花屋だけのようである。


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理・美容室となっている「旧図書館」
昭和11年に上野の帝室博物館が建て替えられる時、解体した用材を払い下げてもらい患者大工によって復元された。


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当初の墓地跡
全生病院が開院した1909年より2年ほどの間に亡くなった患者たちを葬ったところ。
はじめは土葬だった。
松の木は墓標とした小松が成長したものといわれている。
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全生学園跡記念碑
開院当初は礼拝堂で入所者による子弟教育が行われていたが、1931年に全生学園が建設された。
1953年、教育基本法の施行により、化成小学校、東村山市立第2中学校の分校となり、正規の教師が派遣されるようになった。
患者の先生は補助教師として残ることになった。
患者先生だった北条民雄はその著「いのちの初夜」で、遊ぶライ児の無邪気な姿を眺めながら、この子らに勉強を教えて何になる、という感慨をもらす。
1979年に生徒がいなくなり廃校となった。老朽化した校舎は2008年に解体された。


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全生学園跡


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日蓮宗会堂 背後(東側)に大師堂


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カトリック教会


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聖公会


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秋津教会                                  ’18.1.11



画像諦念のうちに療養所に隔離されて生活することを決心した時、食の充実をまず考えることになるだろう
2017年秋季企画展で発行された冊子

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いのちの初夜  北条民雄 著
  角川文庫(’55.9)

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
ずっと以前ですが、仕事で全生園のそばを車で通過していました。「らい病の隔離施設だったところ、なぜまだあるのだろう?」程度に思っていました。戦後に治る病気となっても、ひとの認識はなかなか変わらないですね。
こんな施設になっているとは知りませんでした。
今は、風邪より死者が少ないのではないでしょうか?
ワトソン
2018/01/15 22:22
ワトソンさん、ありがとうございます。
当時も、らい病そのものが死亡原因になることは少なかったようです。
無知であることに起因する偏見って怖いですね。
らい者本人だけでなく、家族まで村八分にされた過去の歴史を考えると、たまらないです。
未来への教訓にしないと死者に対して申し訳ない。

2018/01/17 18:25

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