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zoom RSS 嵯峨野を歩く

<<   作成日時 : 2017/04/23 21:25   >>

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「松風」の帖で光源氏が造営し、「若菜」では紫の上が源氏四十の賀を祝して薬師仏供養を行った御堂が栖霞観とされ、清凉寺の阿弥陀堂にその名を残している。
源氏物語ゆかりの地、清凉寺をあとにして、西門より愛宕道を西へと歩く。
右手に夕霧太夫遺跡と刻まれた石碑が建っている。
間もなく慈眼堂。
この近くに藤原定家が百人一首を編んだ小倉山荘の候補地のひとつがある。
ゴミ袋が積み上げられているのが興ざめだったが、とりあえず撮影する。
少し先で南へ迂回して、落柿舎の門前を過ぎて再び北へ向かい、西行井戸と落柿舎の主・向井去来の墓に詣でた。
この辺りは先人を慕う歌詠みや吟行する人が訪れるのだろう。
去来の墓の傍らには一句ずつ刻まれた石碑が建ち並び、西行井戸の左右には現代の歌碑が一列に連なっている。
ひとつひとつ読んでいくとそれぞれの歌人の顔までも浮かんでくるような気がする。
字体も個性的で味わいがある。

さらに北へ歩いて行くと「小倉百人一首文芸苑」と名付けられた一画があり
歌を刻んだ自然石が木立の下に点在していた。
昔はこのような施設はなかったように思う。
好事家のグループがガイド役の説明を聞きながら、歌を確認しては「日が暮れてしまう」と苦笑している。
まだ百個はとてもないように見受けられたので整備途上なのかもしれない。

どこかで昼食をとりたいと思い入った店に既視感があり、そう10年以上も前にやはりここでお昼を食べたっけ…
規制の厳しい風致地区にもいつかこじゃれた店が増えている。
中国人観光客向けにカスタマイズされているような雰囲気がないでもない。
だがさすがに天龍寺から大河内山荘へと抜ける竹林の道にあふれていた観光客もここまではやって来ない。
シーズンオフの週日だったからなおさらだ。
化野念仏寺に向かいながら、徐々に気分がそれらしくセンチメンタルになってゆくのを邪魔するものもいない。

あだし野の露消ゆるときなく、鳥部山の煙立ち去らでのみ、住み果つるならひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。

枕草子を心の中で繙いている。
清少納言が言うところの真理は不易である。
人が死すべき存在ではなく不死だとしたら、確かに努力などはしないだろう。
「もののあはれ」どころか、情趣を覚える感情のひだも浅く、少なくなってしまうに違いない。
ましてや、源氏物語が描くところの教養としての色好みなどあり得ないだろう。
絶対的な死に抗おうとする心と諦念…
諦念こそ悟りの原義であるということ思い出した。




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慈眼堂(中院観音)
清凉寺から西へのびるこの道は愛宕道で、道なりに行くと化野念仏寺を経て愛宕神社に至る。
道の両側は、愛宕神社の中院があったところから、中院が町名となっている。
慈眼堂の本尊は「木造千手観音立像」
藤原定家の念持仏と伝えられている。
また、この北に尼寺厭離庵があり、定家山荘跡と伝える。
(小倉山荘或いは時雨亭とも呼ばれる定家の山荘は他に常寂光寺、二尊院境内がその候補地になっている)
庵号は霊元天皇に与えられたもので、言うまでもなく「欣求浄土・厭離穢土」による。
一説にこの地は宇都宮頼綱の中院亭跡ともいう。
頼綱は北条時政の女婿で、源実朝暗殺に加担した嫌疑を受けて出家している。

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落柿舎
芭蕉十哲のひとり向井去来の隠棲所。
柿の木を売ろうとしたところ、夜中に風が吹いて柿の実が落ちてしまい、売買が成立しなかったことから、落柿舎と称したという。
去来はここを俳諧道場とし、農民や町人も自由に出入りした。
芭蕉は3度訪れ、嵯峨日記を著す。

  柿ぬしや木梢(こずえ)は近き嵐山  去来

「落柿舎」の扁額は折口信夫の筆。
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嵯峨天皇皇女・有智子内親王墓
初代賀茂斎王。のち嵯峨西荘に住んだ。
詩文全盛時代の才女。

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嵯峨野小倉山弘源寺墓苑
ゆかりの西行や向井去来にちなみ、全国の歌人、俳人に呼びかけ、歌碑句碑の建立をしたものという。

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百人一句


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去来塚

凡そ天下に去来程の小さき墓に詣りけり  高浜虚子


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百人一首


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西行井戸


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小倉百人一首文芸苑 屋外展示施設

秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の かげのさやけさ   
                              左京大夫顕輔(新古今集)

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「こみち」で昼食を兼ねて小休止。
にしん蕎麦をいただく。

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右、檀林寺
嵯峨天皇の后、檀林皇后こと橘嘉智子は、深く仏教に帰依し、嵯峨の地に檀林寺と呼ばれる広大な寺院を営んだという。
当寺は、その由緒により昭和39年に再建された。
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祇王寺・滝口寺への道
今回はパス

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後亀山天皇嵯峨小倉陵
南朝最後の天皇は1392年の南北朝合一により吉野より帰還。当地に隠棲する。

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後亀山天皇陵への道


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左、化野念仏寺の参道
右、愛宕道

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以下、化野念仏寺


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インドサンチー寺院と同形の仏舎利塔という。
塔門と欗楯は後世の鳥居と玉垣の原形とか。

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明治36年(1903)頃に近くより出土した小石塔数千(多くは室町時代)を集め、毎年8月23・24日夜に千灯供養が9月第2日曜には虫供養及び千灯供養が行われる。

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本堂には本尊の阿弥陀如来坐像が安置されている。
寺伝によれば空海が死者の菩提を弔うために五智山如来寺を建てたという。
当初真言宗であった寺を、鎌倉時代初期に法然が念仏道場とし、浄土宗に改められ念仏寺と呼ばれるようになった。
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角倉素庵の墓がある。
素庵は父の了以とともに保津川の開削や高瀬川の開通、朱印船貿易など数々の大事業に携わった。
文化面でも装丁の美しさで知られる文学や謡の活字本「嵯峨本」を刊行するなどの業績を残した。
嵯峨本「伊勢物語」は挿絵の施された最初の印刷本である。
角倉家の菩提寺二尊院ではなくこの地に葬られたのは、不治の病のため自らの葬送の地として化野を選んだという。
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大覚寺道へ                                 ’17.3.1



                                          つづく

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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
気ままな逍遥ですね。
私が、約40年前の東京からの出張の帰りに、と言っても名古屋から京都へ新幹線で、駅からバスで訪れた落柿舎を思い出しました。
雨が降っていて、連れの一人以外には誰もいませんでした。その時、その時「こんな所に住めたら心が安らぐだろうな」と思い、連れに言ったら、「世捨て人になる」と言われました。20才台でそんなことを思うほど忙しかったのかと思いますが、反面、出張の帰りに京都に寄る余裕があったことが、その後では無かったことを思うと、よい時代だったのかと思います。
ポピュリズムは、グローバルの競争の拒否なのでしょう。
ワトソン
2017/04/28 21:47
ワトソンさん、ありがとうございます。
女のひとり旅というと昔は警戒されたものです。
自殺するんじゃないかと(笑)
嵯峨野に時雨はつきものです。
この日もどうかするとしぐれて、嵯峨野らしい風情を演出してくれました。
寒い日は時雨ではなく雪となり、竹林に雪が舞う景色は何とも言えません。

2017/04/28 22:54
高校生の時、歴史に詳しい友人に落柿舎に連れて行ってもらったことを思い出しました。
ウリ坊には、その良さが分からず、記憶にもあまり残っていませんが、入口でカルタを買ったことだけは覚えています。ここも、記事を拝見して再訪したくなりました。
ウリ坊
2017/05/03 19:03
ウリ坊さん、ありがとうございます。
落柿舎の前を何度か通りながら、まだ中に入ったことがありません(^^;)
嵯峨野や大原は観光地化しても魅かれるものがありますね。

2017/05/04 17:24

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