風を待ちながら・・・

アクセスカウンタ

zoom RSS 清凉寺への道 源融の山荘「棲霞観」跡を訪ねて

<<   作成日時 : 2017/04/18 23:04   >>

ナイス ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 2

画像





市街のホテルをチェックアウトして嵯峨野へやって来た。
宿にキャリーを預けた後、迷うことなく清凉寺への道を歩き始める。
清凉寺は光源氏のモデルとされる源融の山荘「棲霞観」のあったところだ。

嵯峨野は隠棲の地であり、葬送の地である。
失意のうちに静かに余生を送ろうとする人、近しい人々の菩提を弔うためにひっそりと仏道に専念する人…、すでに野心は消え、ただひたすら精神性が研ぎ澄まされてゆく土地。
そんなセンチメンタルは嵐山の駅に着くとたちまち裏切られることになるだろう。
嵐山駅から天龍寺、渡月橋の辺りは、土地柄に反していつも観光客で賑わっている。
その観光客が今や様変わりして、遠つ国の人々で全く占められてしまった。
タクシーの運転手は日本人が来なくなった、と嘆じていたが、確かに日本人が締め出されてしまったかのような感がある。
とはいえ、さすがに清凉寺まで来るとシーズンオフの今、人影もまばらになり、境内に準備されたお松明も、しばし小休止という趣である。
あぶり餅で有名な大文字屋はシーズンに入ると、なかなか順番がまわって来なくていらいらさせられるほどなのに、この日はぴったりと戸を鎖している。
独行の旅人は心おきなく境内を探索した。




画像

愛宕野々宮両御旅所


画像

清凉寺仁王門


画像

清凉寺本堂(釈迦堂)
本尊として三国伝来生身釈迦如来像(国宝)を安置する。
3月15日に行われる「嵯峨のお松明(たいまつ)」の準備がすすんでいる。
昔は2月15日釈迦の荼毘の日に開催されていたという年中行事。
「早稲・中稲(なかて)・晩稲(おくて)に見立てた高さ約8mの逆三角錘形松明3基を立て、なかに杉、竹の葉などを入れて点火、その年の稲の品種を占う。後方に嵯峨12区の高張提灯が並び、かつては12ヵ月の米価を占った」(「京都府の歴史散歩」より)
 

画像

多宝塔


画像

一切経蔵 右手の石仏は弥勒多宝石仏


画像

吉井勇・歌碑

いまもなほなつかしとおもふ夕霧の墓にまうでしかへり路の雨



画像

映画女優の中村芳子は昭和55年(1980)に夕霧太夫を襲名。
清凉寺にて夕霧供養祭を始める。
彼女の死後は現役の太夫が行事を引き継いでいる。

あでやかに太夫となりて我死なむ六十路過ぎにし霧はかなくも

画像

阿弥陀堂
「源氏物語ゆかりの地」である。
というのは光源氏のモデルのひとりである源融が嵯峨に営んだ山荘「棲霞観」があった地とされるからだ。
融は晩年、写経や造仏に着手していたが、志半ばで他界。
子どもたちが完成させて「棲霞寺」と号した。
源氏物語千年紀(2008)に設置された説明板によれば
『源氏物語』「松風」に、光源氏が造営した「嵯峨の御堂」は大覚寺の南に所在したとあり、棲霞観の場所と一致する
河原院が六条院のモデルであることともに、源融が光源氏のモデルとされる理由になっている。
「清凉寺式」として有名な、「然が宋から請来した「生身の釈迦像」は棲霞寺内の釈迦堂に安置され、清凉寺と称した。
画像

一切経蔵


画像

一切経蔵には、釈迦が説いた「一切の法」(経典)が収められている。
この法輪を一回転すれば一切経を読むと同様の功徳が得られるという。

画像

鎌倉時代、円覚上人が庶民教化のために始めたという「嵯峨大念仏狂言」
清凉寺釈迦堂は謡曲「百万」の舞台である。
西大寺で子を失い物狂いとなった百万は、奇しくも「大念仏」の日に、清凉寺境内で生き別れた子に再会する。
子別れと奇跡的な再開の物語は、涙なくして聴くことができない。
画像

源融公墓所
多宝塔の背後、ひっそり木立の下に建つ。

画像

嵯峨天皇・檀林皇后を供養する宝篋印塔(鎌倉)と五重層塔(平安)
背後の狂言堂は「嵯峨大念仏狂言」を前にして修復中か。
融通念仏の遺風とされる念仏狂言は3月15日涅槃会のときと4月に行われる無言劇である。
画像

仁王門 その前に法然上人像


画像




画像

本堂扁額「栴檀瑞像」の文字は隠元による


画像

本堂の北側背後に池泉回遊式庭園。
庫裏とは渡り廊下で結ばれ、墓地には夕霧太夫の墓がある。

画像

秀頼公首塚 大坂の陣精霊供養碑


画像

↑↓薬師堂
もと薬師寺と号し、本尊薬師如来は818年悪疫流行の際に、嵯峨天皇が空海につくらせたという霊仏である。
明治維新まで嵯峨御所事務所として権威を持っていた。
明治初年浄土宗に転じ、現在清凉寺塔頭のひとつになっている。
画像




画像

薬師堂前の石碑に「生六道」と刻まれている。
もとこの付近にあった福正寺に井戸があり、小野篁が冥土より帰還の際、出口となった井戸と伝えられている。福正寺の遺仏である小野篁像は薬師堂に安置され、井戸は埋め戻され、現在宅地になっているとか。 

画像

↑↓嵯峨薬師寺


画像

              ’17.3.1









                                            つづく



テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 3
ナイス ナイス
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
千年前のフィクションのロケーションを今も見ることができる。
源氏物語、注釈付き原典、現代語訳など何度も挑戦しましたが、入っていけませんでした。つまり、何を言いたいのかが分かりません。こんど、瀬戸内寂聴版で試みようと思います。
ワトソン
2017/04/21 20:21
ワトソンさん、ありがとうございます。
宇治十帖が一番よくわかるような気がします。
紫式部の虚無感が伝わってくるような…
いずれにせよ現代からあまりに遠く、それも雲上人の世界。
それでも人の心は同じです。だから千年前の作品でも読めるのですね。

2017/04/23 21:32

コメントする help

ニックネーム
本 文
清凉寺への道 源融の山荘「棲霞観」跡を訪ねて 風を待ちながら・・・/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる